現代文
高校生
どうしてもこの問題だけ解けないんです。
教えていただけないでしょうか?🙏
抜き出しではないです!文章中の言葉を使って要約するそうです!
「哲学の使い方』鷲田清
B西洋の思想伝統においてはほとんどの場合、身体は「物体」(body\corps)の一つとして、
「心や「精神」(mind\esprit)と対置されてきた。たしかにわたしの身体は、わたしが見、触
れることのできる物的対象の一つである。それは物体としての密度と容積をもち、叩けば音もす
る。それは疑いえないことで、だから西洋の科学の歴史のなかでは長らく、身体はもっぱら《機
械》のモデルに沿って医学や生理学の対象として分析されてきた。けれども、あらためて考える
と、 人の身体は物体としては知覚情報があまりにも乏しい。具体的にいうと、たとえば見える部
分は全体の半分にも満たない。後頭部や背中はどうあがいても絶対じかには見ることができない。
つまり、〈わたし〉の身体はわたしにはトータルには不可視なものであり、〈像)としてしか体
ら」
インヴィジブル
けれ
験できないのである。わたしの身体はそれなしに〈わたし〉のありえないもの、というか(わた
し》自身でもあるのに、それ全体から当のわたしは遠く隔てられているという事態がここにはあ
ニーチェは書いていたが、この言葉は
き)
わた
(一階)
る。「各人は各自にもっとも遠い者である」とかつて一
身体にこそよく当てはまる。
この点について、いますこし丹念に見ておこう。
じぶんの身体というものは、だれもがじぶんのもっとも近くにあるものだとおもっている。た
とえば包丁で切った傷の痛みはわたしだけが感じるもので、他人は頭でわかっても、わたしの代一
わりに痛んでくれるわけではない。その意味で、わたしとはわたしの身体であるといいうるほど
に、わたしはまちがいなくわたしの身体の近くにありそうである。ところが、よく考えると、わ
たしがじぶんの身体についてもっている情報は、ふつう想像しているよりもはるかに貧弱なもの
だ。 身体の全表面のうちじぶんで見える部分というのは、ごく限られている。だれもじぶんの身
体の内部はもちろん、背中や後頭部でさえじかに見たことがない。ましてや他人がこのわたしを
そ。
だ。
じぶんの身体を、いわば目隠ししたまま経験するほかないのであって、危ういばかりに無防備な
想川
のである。
身体は、別の意味でも不安を呼び起こす。身体としての〈わたし〉の存在、とりわけ感覚や
欲望というかたちでのその現象は、〈わたし〉自身がうまく統御できないものである。あるいは、
病や痛み、こういう身体の現象も、〈わたし〉には不意を襲うかたちでやってくる。それに対し
て(わたし》はいつもただ受動的に、襲われるがままになっているしかない。この意味でもひと
は、それが何であるか正確に理解できないまま、身体のさまざまな情況に対応しなければならな
身体はこのようにそれなしではわたしが〈わたし〉でありえない存在でありながら、それに」
《わたしはつねに部分的にしか関与できない。それは〈わたし〉が制御できるものではない。
それゆえに身体は、(わたし〉にとってなによりも不安の源泉である。そしてそれが意識の外か」
ら〈わたし〉を突き上げる(たとえば欲動、あるいは体調の不全や病気)。《わたし〉を刺し(た
とえば他人の冷ややかな視線)、引っぱり(たとえば修行や競技)、そして(わたし)に貼りつく
18
わたしとして認知してくれるその顔は、終生見ることができない。そして難儀なことにこの顔に、
だ だ
18
も
可
し
ま
る
0
100
経験するほかない
5 具体例·意見
身体としての〈わたし〉の存在
身体はこのようにそれなしではわたしが〈わたし〉でありえない存在でありながら、それに
《わたし)はつねに部分的にしか関与できない。それは〈わたし〉が制御できるものではない。
それゆえに身体は、(わたし)にとってなによりも不安の源泉である。そしてそれが意識の外か
ら〈わたし)を突き上げる(たとえば欲動、あるいは体調の不全や病気)。〈わたし〉を刺し(た
とえば他人の冷ややかな視線)、引っぱり(たとえば修行や競技)、そして〈わたし〉に貼りつく
というかたちでのその現象
できない
《わたし〉自身がうまく
それが何であるか正確に
身体のさまざまな情況に
|しなければな
(裏面に続く)
『哲学の使い方」 鷲田清一
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