歴史
中学生
解決済み

江戸に様々な物資が集まり、栄えることになった理由を教えてください、、。

回答

✨ ベストアンサー ✨

三都の繁栄
江戸は、幕府が置かれた政治的中心都市であった。江戸幕府の3代将軍家光のときに改定さ ぶ けしょはっと
れた武家諸法度では参勤交代が制度化されたこともあり、江戸には全国から武士が集住するよ うになった。生産者ではない武士の生活を支えるため、商人や職人も住むようになった。武士 と町人の人口を合わせて、約 100 万人もの人が住んでいた江戸は、同時代の海外の都市と比 べても、世界有数の大都市となっていた。
大坂は古来より交通の要衝であったが、江戸時代には諸藩の蔵屋敷が置かれ、商業的中心都 市となった。大坂には全国から年貢米や産物が集まり、売りさばかれ、江戸をはじめとしたさ まざまなところに出荷された。物資の集散地であり、たくさんのモノとカネが動く場所であっ たため、「天下の台所」と呼ばれた。
京都は平安京遷都以来の歴史を持ち、朝廷や多くの寺社が存在する伝統都市であった。天皇
家や公家の生活や行事、寺院や神社などの宗教を支える道具づくりの文化が栄えた。長い歴史
の中で育まれた高度な技術をもつ手工業が発達した、伝統工芸の中心都市であった。
江戸・大坂・京都は、それぞれ性格を異にするが、いずれも全国的な流通の中心として機能
さん と する大都市であり、三都と呼ばれた。

交通の発達
近代的な交通手段が確立する以前、大量の物を運ぶ手段は船に頼ることがほとんどであった。
そのため、三都を中心とする物資の流通網を、主に支えたのは水上交通であった。なかでも、 ひ がきかいせん たる
江戸と大坂を結ぶ海路は特に重要な輸送路であり、菱垣廻船や樽廻船が就航した。また、年貢 かわむらずいけん
米を江戸や大坂に運ぶための東廻り航路・西廻り航路が、河村瑞賢によって開かれた。河川交通を含め、船による流通のネットワークが全国に広がった。
ご かいどう また、江戸時代には陸上交通も発達した。幕府は、全国支配のために五街道をはじめとする
しゅく ば 主要道路を整備した。それらの道は公用だけでなく、さまざまな人が利用する道となり、宿場
いち り づか せきしょ や一里塚、関所などが整備された。宿場には、参勤交代等で通る大名などが泊まる本陣・脇本
といや ば はたご 陣のほか、公用の業務を行う問屋場、一般の旅行者が泊まる旅籠などが置かれた。陸上交通の
つぎ ひ きゃく 整備にともない、飛脚などの通信機関も発達した。飛脚には、幕府公用の継飛脚や、各藩専用
の大名飛脚、民間の町飛脚などがあった。
このような陸上交通と水上交通の発達により、さまざまな物資や情報が全国規模でやり取り
されるようになった。

産業の発達
江戸幕府や諸藩は、生産力を高め、安定化することを図り、農業政策にも力を入れた。新田開発を奨励し、河川の治水や干拓などをおこなった。また、農民も、生産量の増加、作業の効 びっちゅうぐわ せん ば こき とう み
率化、生活の安定化のために、備中鍬や千歯扱、唐箕などの新しい農具を使用するようになっ しもごえ きん ぴ
た。貨幣経済の浸透とともに、下肥や金肥などの肥料を購入するようにもなった。新しい農業技術を取り入れるために農書も活用された。
漁業や手工業など、農業以外のさまざまな産業も発達した。問屋商人が原料や資金を農家に
前貸しして製品を受け取る問屋制家内工業も現れた。
江戸幕府は、大量の金貨・銀貨・銭貨を発行し、貨幣経済も急速に浸透した。それぞれの貨 りょう もんめ かん もん
とい や
幣は単位が異なっており、金 1 両=銀 50 匁(のち 60 匁)=銭 4 貫(1 貫= 1000 文)とい
う交換比率が決まっていたが、実際にはその比率は変動していた。それぞれの貨幣を交換する りょうがえしょう か わ せ
必要が生じ、富裕な商人のなかから両替商も現れ、為替や貸し付けなどの金融業務もおこなった。

長くてすみません

マスカット

つまり、「‪幕府が置かれたから」と言うことですか?

そういうことです!
でも幕府の力(信頼)が強くなきゃいけないのでそこもポイントかなぁ?
うん
返信遅くなってごめんなさい😣

マスカット

ありがとうございます☺️

この回答にコメントする
疑問は解決しましたか?

この質問を見ている人は
こちらの質問も見ています😉