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好太王碑の碑文は、高句麗の長寿王が父親の好太王の功績をたたえるために建てた石碑です。4世紀の朝鮮半島情勢を知ることのできる史料ですが、例えば百済・新羅がもと(高句麗の)属民だという記述は事実とは違うと考えられます。つまり、好太王の功績を強調するために、脚色が含まれていると考えられます。教科書には解釈が分かれているとありますよね。碑文の記述をどこまでが事実でどこからが脚色なのかは解釈が分かれますが、4世紀末に倭国が高句麗と戦ったことは事実であろうと思われます。というのも、このころまで日本列島では馬はいませんし乗馬の風習もなかったのに、5世紀の中期古墳の副葬品には馬具が登場するようになります。そこから考えるに、高句麗の騎馬軍団との戦いを通じて和人も騎馬技術を学んだと考えられます。
好太王の碑文は中国の史書から倭の記述がみられなくなった4世紀の日本列島のことを知ることのできる貴重な史料ですが、その内容については慎重に扱う必要があるのです。
すごく丁寧な説明ありがとうございました☺️