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聖武天皇がいたのに橘諸兄は政権をにぎれたんですか?

回答

✨ ベストアンサー ✨

律令制度について勉強したときに太政官というのを学びましたよね。それを思い出してください。太政官は行政全般を担当する部署で、行政の運営は、太政大臣(臨時なのでいないことがある)・左大臣・右大臣・大納言などの公卿の合議によって進められました。この公卿の会議で話し合われた政策を天皇に上奏し、天皇が許可を出せば実行されていきます。ですから、公卿が話し合ったことを天皇が承認するだけになれば、政治の主導権は公卿の側にあると言えますし、天皇の意向が公卿の話し合いに反映されることが多ければ、主導権は天皇にあると考えたらいいのではないでしょうか。そして公卿の話し合いをリードしていくのは、公卿の中での高い地位に昇進することが条件になります。橘諸兄は太政官では下の方の参議でしたが、この頃流行した天然痘で右大臣や中納言などが次々と死去してしまい、残った公卿は橘諸兄ともう1人となります。そこで急きょ、橘諸兄を右大臣にして太政官の中心として政権を握ります。
ただ、政権を握ったからといって何でもかんでもすべて橘諸兄の言うなりというわけではありません。実際、743年に制定された墾田永年私財法は橘諸兄政権が天然痘の流行によって人口が減少したため荒廃した土地を再開発するために出しましたが、同じ743年に制定された大仏造粒の詔は聖武天皇が仏教の持つ鎮護国家の思想によって国家の安定をはかって出したものですから、こちらは聖武天皇が主導しています。

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