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立憲政友会をきっかけに中江兆民のすすめで、幸徳秋水が万朝報に「自由党を祭る文」を発表しましたが、幸徳秋水は結局どうして批判したのですか?

お願い致します🙇‍♂️🙇‍♀️🙇

日本史 立憲政友会 伊藤博文 幸徳秋水 自由党を祭る文

回答

✨ ベストアンサー ✨

「自由党を祭る文」は、政党政治の歴史の中で生まれたものです。
まず、前提となる憲政党の歴史を整理しておきましょう。

もともと憲政党は自由党と進歩党が合体したものでした。この両者はかつての政敵でしたが、第3次伊藤内閣の地租増徴案を阻止するために結託しました。
しかし元々敵だったこともあって、憲政党内で、旧自由党系と旧進歩党系の対立が起こりました。結局、旧自由党系の星亨が根回しをして、憲政党は解党します。
この際憲政党は、旧自由党系の憲政党(同じ名前なので混乱しないよう注意)と、旧進歩党系の憲政本党に分裂します。

ここで、伊藤博文としても、政党の勢力は無視できない、という認識がありました。選挙権が緩和され、参政権が拡大したからです。そこで伊藤は自ら政党結成に乗り出し、(旧自由党系の)憲政党と手を組むことにします。立憲政友会の誕生です。

幸徳秋水の立憲政友会批判は、「自由党を祭る文」の中にある「自由党死す」という言葉に要約されます。
憲政党は旧自由党系なので、その憲政党の流れを引く立憲政友会も旧自由党系と言えます。立憲政友会の成立によって、「自由党」は、かつての政敵であり、藩閥でもあった伊藤博文と手を組んでしまったわけです。
そのことを「自由党死す」と表現し、批判をしたんですね。

長文ありがとうございます😭
背景から繋げて考えると、批判した理由もすぐ分かりますね……🤔
分かりやすい説明本当にありがとうございますorz

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