現代文
高校生
【至急】
現代文全然わからないので答えて欲しいです!
⑴傍線部①とあるがこのようにいうのは何故か。
六十字以上七十字以内で述べよ。
⑵傍線部②とはどういうことか。
八十字以上九十字以内で述べよ。
⑶傍線部③について、筆者の「ネーションへの帰属」に対する考えを百字以上百二十字以内で述べよ。
Rアや Sト
す。この漠然とした読解を改善しなくては、現代文で安定した点奏をりる
身につけていきましょう。
(ナショナリズムとは何であろうか? またネーションとは何だろうか?ナショナリズムは、近代的な現象である。歴史家たちは、こ
のことをよく認識している。ネーションやナショナリズムの始発点を近代のどの時期に求めるべきかについては、後に議論しよう。それ
が厳密にはどの時期であるにせよ、ネーションという共同体が、古代にすでにスタートしていたという、ナショナリストたちがしばしば
抱く主観的な思い込みは、明らかに客観的な事実に反している。
ベネディクト·アンダーソンは、近代的な現象としてのナショナリズムのあり方を直感するためには、「無名戦士の墓と碑」のことを思
N
ってみればよい、と勧めている。れらの墓は、徹底して匿名的であるか、あるいは空虚である。これらの墓にだれが葬られているか、
だれも特定することはできない。ときには、墓が、意図的に空である場合すらある。このようにだれかの死を記憶するための建造物が、
始めからまったく匿名的であり、実質的には空虚であることなど、かつてはなかったことである。つまり、これは、純粋に近代的な現象
なのである。かつても、遺骸の納められていない墓というものが稀にはあった。たとえば、古代ギリシャでは、何らかの事情によって遺
骸を通常のしかたで埋葬できない人のための空の墓があったし、エジプトのファラオの墓が、どういう理由によるのか、意図的に空にな
っている場合がある。心かし>でれちは、社会のなかの特別なーしたがって名のある||人物のものであり、少なくとも同時代の人々
にとっては、どの個人のためのものか特定できたはずだ。しかし>社会の一般の、しかもこれほど大量の人々の墓が、時間の流れのなか
で生ずる忘却の不可抗なはたらきによらずして、最初から匿名的なものとして設置されたことなど、かつてなかった。しかも』墓碑の公
共的·儀礼的な価値は、ひとえにこの匿名性に依存しているのである。アンダーソンの指示に従って、だれかどこかのひま人が、無名戦
士の名前を発見したとか、記念碑に本物の骨を入れようと言い出したと想像してみよう。Oこれは、奇妙な見当はずれの、冒漬的ですら
ある提案に聞こえてくる。これらの墓は、明らかに空であるにもかかわらず、ある感情的な色彩をともなった国民的想像力を鼓舞する。
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まるで、この墓が記念する人々は不在であることを条件にしてこそ、まさにそこの住民であるかのようだ
アンダーソンが注意を喚起している以上の事実から、ナショナリズムの性質について、次のような諸点を抽出することができるだろう。
定の人物という資格においてではなく、抽象的で形式的な個人として、主題化される、ということである。ここには、ナショナリズムに
おける奇妙な混交が、反響しているのを見ることができる。抽象的な形式として見なされるかぎりでの個人は、言わばだれでもありうる
のであって、原理的に言えば、その資格をどこまでも普遍化することができる。心かしVにもかかわらず、だれも墓が代表している不在
第一に、墓碑の匿名性が意味していることは、人々は、ネーションという共同体に帰依していると見られているかぎりでは、具体的な特
る。つまり、の普遍化可能な資格によって、特殊に閉じられた一つっの共同体の成員だけが囲いこまれていることになるのである。
第二に、墓碑が教えることは、ナショナリズムが、死についての、そしてまたその反面である不死についての観念と結びついていると
いうことである。墓碑は、葬られている人物を、その生の宿命的な有限性を越えた連続性|言わば時間的な普遍性||へと接続し、そ
の住民の国民的帰属を疑わないのであり、彼/彼女は、たとえばフランス人であったり、日本人であったり、フィリピン人であったりす
のなかで意味づける。このことと、ネーションのための殉死者が匿名的なままで記念されうるということとを合わせて考えると、次のよ
うなことが結論される。ネーションへの帰属ということは、時間的な遥か彼方で、すでになされてしまった選択のようなものとして現れ
るということ、これである。ネーションは、生の時間幅を越えたところで、そもそも任意の時間の有限な幅を越えたところで、選択され」
てしまっている。哲学の用語を用いて表現するならば、ネーションへの帰属を決定する選択は、言わば、先験的(超越論的)な選択なので
ある。ネーションの起源は、こうして、(任意の)個人の生の時間を越えた、遥かな過去に求められる。それは、各個人の生の時間の内部一
の選択に、要するに意識的な選択に、帰することができない。
しかし、それは、ナショナリティということが、社会学者の言う「生得的地位 ascribed status 」のようなものになっている、ということ
とは少しばかり異なっている。社会学は、地位を、先天的に決定されている生得的地位と、後天的に獲得され選択された獲得的地位|
achieved status とに分割するが、ナショナリティは、この二分割を横断してしまうのだ。ナショナリティは、選択されたものなのだが、
その選択は、生の時間幅を越えたところにすでに完了してしまっているかのように扱われるからである。選択されたものでなくては、人」
は、それのために殉ずることはできない。たとえば、単に女であるとか、黒人であるとかという性質だけのために殉死するなどというこ
とは、意味をなさない。フェミニズムとか、反人種主義とか、マルクス主義などのために殉死することはできるが、それが可能なのは、
これらの思想がその殉死した当の人物によって、選択されたものだからである。しかし、他方で、 |アンダーソンが述べていることだ
が、無名フェミニストの墓とか、無名反人種主義者の墓、無名マルクス主義者の墓などといったものは、まったく滑稽である。なぜ
滑稽なのか? フェミニズムや反人種主義やマルクス主義は、個人の生の内部にある選択、つまり意識的·自覚的な選択||経験的な選
択||に服しており、したがって、それについて特定の誰彼に責任帰属させることができるのであって、それが誰でもありえない匿名的
な身体に担われるなどということはありえないからである。
ネーションへの帰属ということに含意された、選択性のこのような奇妙な構成は、宗教に固有なある錯覚をもたらす。偶然的なものの
必然的な宿命への転換が、それである。一方では、それは単なる偶然的な属性のように現れる。しかし、その属性が、(自身に帰するこ」
ば、レジス·ドブレは次のように断言している。「しかり、私がフランス人に生まれたことはまったくの偶然である。されどフランスは
とができる)すでに完了してしまった選択の所産であるならば、選択した者としては、引き受けなくてはならない必然でもある。たとえ一
不滅である」と。
言い換えれば、ネーションへの帰属は、まるで他ではありえなかったものとして したがって本来は選択の余地がないそのかぎりで
は生得的属性に類似したものとして|、しかも選択されているのである。ここで、われわれは、人は、選択しえないもの(として選択一
されたもの)にしか真にコミット(はまること)できない、ということを、思い起こすべきであろう。たとえば、ある人が、恋人を、ちょ
うどネクタイを選ぶときのように、慎重に他の候補と比べた末に、選び出しているのだとしよう。こうしたやり方で選ばれた相手との関
係は冒漬的で、真の恋愛ではない、という印象を与える。むしろ、人はだれかを真に愛したときには、この出会いは宿命的に定められて」
いたのであり、こうなるほかなかったのだ、と自ら了解するものである。とはいえ、他方で、それは単に与えられたもの(押しつけられ」
たもの)であってはならず、やはり、選ばれたものでもなくてはならない。@ネーションへの帰属は、こうした形で選ばれているのであ
oN
ネーションー 国家
ベネディクト·アンダーソン|アメリカの政治学者。ナショナリズムの研究を行った。一九三六~
無名戦士の墓と碑|| 身元が明らかでない戦死者を葬った墓や、不特定の戦死者を記った石碑。
ファラオー古代エジプトの王。
ナショナリズムにおける奇妙な混交||特殊主義であるはずのナショナリズムのなかには、普遍 (平等)主義の考え方が転化した」
ものもあり、ナショナリズムのなかに普遍主義の要素が混在しているということ。人は、個人名ではなく○○人として表される。
ナショナリティーどこかの国に国民として帰属すること、国籍。
レジス·ドプレーランスの哲学者。一九四O~
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