日本史
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天慶の乱についてわかりやすく教えてください
調べてみたのですがどうもよくわからなくて…

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承平・天慶の乱かな?
承平・天慶の乱とは平安時代中期のほぼ同時期に起きた平将門の乱、藤原純友の乱の総称。

ではその二つの乱とは何か?
中学の時に習っているかもしれないが
まず、その二つの乱が起こった背景から話していきたいと思いまーす。
「背景」
簡潔に言うと武士がいるからー
って当たり前やないかーと思うかもしれませんが。
武士のおこりが背景にあります。
当時、治安がすごーく悪い。国司による略奪や争いが勃発していた。
→それに対抗…地方豪族や農民が武装するように。
これが後に貴族等に依頼を受け、治安維持をしていくようになる。
武士にも様々な種類があるが、そこは割愛。
10世紀以降、武士らが集まり、武士団を形成。そのトップのことを「棟梁」という。有名な武士団として、清和源氏、桓武平氏などがあるね!

そのような出来事のなかで、桓武平氏の血をひく平将門が京で藤原忠平に仕えていました。
ところが将門の父良持が亡くなり、将門か東国にいる際に叔父に、父の土地を奪われてしまいます。
→その結果、叔父との間に領地を巡る親族争いになる。

叔父らは先に攻撃を仕掛けるが、将門に返り討ちを受ける。
これにより将門は朝廷に訴えられたが、軽い罪となり、恩赦により釈放された。

また、武蔵国郡司の武蔵武芝と受領の興代王が不仲であったので、その仲介に関東で大きな影響力がある平将門が引き受けた。
そこで、将門は武蔵武芝と興代王とその部下の源経基とお酒を呑みかわし、和解を進める。
しかし!
過激派が源経基を殺害しようとし、首謀者は将門だー!と勘違いされてしまいます。これを受け、経基は朝廷に訴え、将門は朝廷から警戒されます。
将門は国府の証明書を送り、何とか疑いを晴らします。

さらに常陸国で、藤原玄明(土地所有者)と受領の間に争いがおきます。
将門は玄明をかくまい、受領との争いに発展。受領は国府に逃げたが、包囲し、勝利をおさめる。

国府周辺で略奪や乱暴を働く、将門軍
は勢いに乗り、関東全域を支配下におきます。さらに巫女からの御告げがあったとして、自らを「新皇」と称しました。
これを受け、朝廷は黙っていません!
「新皇」を名乗ることは朝廷(天皇)にたいしての反逆とみなされ、将門の追討軍が集められました。
将門軍は少数ではあるものの、風を読む戦法により、対抗。

函館駅前

しかし、風向きが変わることで陣地へ引き返す将門に矢が刺さり、討死してしまう。よって、一連の平将門の乱が終わる。

「藤原純友の乱」
当時、瀬戸内海には1000艘の海賊がおり、その海賊討伐に藤原純友が派遣されました。
いろいろな説がありますが、海賊討伐に対する、恩賞が不十分だったかつ、
海賊の多くは、朝廷に対して、不満が募っていたので、意気投合し仲間になる。
藤原純友は淡路の武器庫を襲い、京へ向かうが、将門が討たれたと聞き、引き返す。朝廷は、東国の平将門の乱を制圧したため、西国の藤原純友の討伐に集中することができるようになり、941年に追捕使の小野好古と源経基率いる討伐軍は藤原純友の討伐へ向かいます。これに対し、藤原純友は大宰府を占拠するなど応戦をしましたが、藤原純友は伊予に潜んでいるところを捕らえられ、その後獄中にて亡くなりました。
そして、藤原純友の乱は終結しました。

その後、武士の反乱は相次ぐようになる。
「平将門のその後」
平将門の首は平安京に運ばれ、さらし首となり、突如首が武蔵国まで飛んだとされています。
現在その場所には将門の首塚が建てられています。
明治時代以降、首塚の調査や撤去をしようとすると死者が出るようになり、祟りだー!と恐れられています。

承平・天慶の乱は武士の時代の始まりの起点であり、武士の地位が高まった大きなきっかけであった。

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