Contemporary writings
มัธยมปลาย
この問題の答えを教えてください🙇♀️
Since 1994
N
TURITORY
【二】 次の文章は、小池昌代の随筆「道について」の一部である。後の問いに答えよ。 (30点)
知っている道に出たときの、あの不思議にほっとする、あたたかい感じ。わたしたちはどんなに大人になっても、身体の奥に、迷子に
なることの恐怖をかかえて生きているのではないだろうか。
しかしどんな道も、いかなる町も、生きているひとと知り合うのに似て、少しずつ、だんだんと、なじんでくるものだ。
町の構造がようやく身体に入ってきたころ、「近道」とか「遠回り」というガイネンも入ってきた。 目印だけを頼りに通っていた道が、
案外回りであることがわかったり、思い切って足を踏み入れてみた小路が、思いがけぬところへ抜けていたり。 道を歩くことは、こ
うして全身をかけて土地を切り開き、土地にもぐりこみ、土地になじんでいく行為にほかならなかった。
知らない道が見知らぬ場所へひとを誘うのは当たり前だが、知っている道が見知らぬ場所にひとを運んだり、知らない場所がよく知る
道に通じていることを知ることには、いつもささやかな感動がある。
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道には知っていることと知らないことを結びつける機能が備わってもいるようだ。知っていることを伸ばしていけば、知らないところ
へ出る。 知らないものを伸ばしていくと、知っている道に出る。
外国に旅に出ると、特に一人旅では、こういうことは明瞭に起こる。 言葉の不自由さに加えて、土地そのものからはじかれている感じ
は、ひとを二重に異邦人にするが、それでもひとつの道が次第に親しい道になっていき、日々、見知らぬ場所へとひとを運び、再び宿へ
とひとを戻すとき、その道はひとにとって、水や塩に等しい、命をつなぐ脈ともなる。 そうした道に付けられてある通りの名前を知った
りすると、道は、いつでも記憶のなかに呼び出せる、親しい友のような表情さえ表す。
初めての道に足を踏み入れるときは、いつも身体に緊張が走るが、すべての道は、二度目に通るときから、「知っている道」になるこ
とも面白い。当たり前のことだが、そのことはうれしい。 二度目に通るとき、ひとは、今の道と記憶のなかの道の、二つの道を同時に歩
くのだ。
以前、わたしの友人に、新しい記憶ほど剥がれ落ちてしまうという記憶障害を持っているひとがいた。そのせいなのだろうか、彼は何
度来ても、わたしの家へたどりつけない。 わからなくなったと、途中で電話が入る。 障害のことをそのとき知らなかった。そのたびに駅
まで迎えに行って、目印になるものを教えながら歩いたが、ついに、ひとりではやってくることができなかった。
わたしの祖母の呆けも、自分の家に帰れなくなったところから始まっている。
祖母も友人も、どれほどに自分がもどかしく、ふがいなく、心もとなく、不安だったことだろう。あのときは、ただ困った状況として
とらえるだけで、彼らの不安そのものには目が向かなかった。
行きたい場所へ、行き着けないいま思うと、彼らの不安は、わたしの不安そのものに思える。 不安はすべて、未来を先取りした途
上に生まれ、その意味で、生きることはそのまま丸ごと、「不安」そのものだ、とわたしは思う。
子供のころ、迷子になったことがある。 夏の朝、家の前の道を、ひとりでずんずんと進んでいった結果、とんでもないところへ出てし
まったのであった。
気がついて見回した町並みは自分のまったく見知らぬ場所である。見知らぬひとが歩いている。 見知らぬ自転車がとまっている。 自分
で勝手に歩いてきただけなのに、自分の帰るべき根元のようなものが、ぷっつんと音をたてて切れてしまったようだった。 遠心力のよう
な透明な力によって、リフジンに道端に捨てられたような気がした。 わたしは、ひとりだった。 あたたかい共同体からはじきだされて。
こん棒で胸をつかれたような、激しい悲しみの感情がわいた。 わたしは大声をあげて、泣いたのではなかったか。
今でも遊園地やデパートや公園などで迷子のアナウンスがなされると、その子供の不安が自分のなかで、同じくらいの大きさにふくら
んでしまう。きっと誰かが迎えに来てくれるに違いないと思うが、そうしたアナウンスは、見つかりましたという結果までは流さない。 とっ
さに脳裏に浮かぶのは、親から見捨てられた、永遠の迷子としての子供のイメージである。 それが自分のなかの悲しみのようなものと共
鳴する。
ここはどこ? すべての迷子は、まずその疑問に射抜かれている。いつも暮らしている場所にいるとき、わたしはそんな質問をもった
ことがなかった。自分が生きている場所を見失う不安、それは自分自身を見失う不安のことなのかもしれない。 ここはどこ? というひ
とつの疑問は、わたしはだれ? という次の疑問を容易に呼び出しそうな気配を持っている。
しかし、わたしは、自分が迷子になったあのときの、ひりひりとした、 異様に新鮮な不安を、大人になった今、時々、味わいたいと思
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Close 1994
TURITORY IMPORT
一の
うことがある。 見慣れたひと、見慣れた土地、いつもの習慣によって、かたちづくられた日常。 それを不意に見失って、道の中央でボー
ゼンとしてみたい。 迷子になることを恐れながら、同時に、期待する心がある。 その心とは、いったい、なんだろう。 どこから生まれて
くるのだろうか。 繋がらなければ生きていけないのに、繋がれば、その絆を切ってしまいたくなる。 迷子というのは内的な危機なので、
幼児のように泣き声をあげない限り、迷子であるかどうかは外側にはわからない。 そう思って改めてナガめてみると、 生きているひとが、
わたしも含めて、みんな迷子に見えてくる。
電車に乗っていて、知らない町を通りすぎるとき、知らない道が、一瞬、さっと目の端に入ることがある。 いま、走り去る電車から目
にしただけで、おそらく一生涯、エンのない道だろう。 そこを歩いていくもうひとりの自分を想像するのがわたしは好きだ。
2
このわたしとはまったく違う人生を持ったわたしが、そこで、生き 暮らしている。そんな気がして、身体を電車に乗せたまま、
心だけを、未知の道に歩かせてみる。
1
問 二重傍線部①~⑤の漢字の読みはひらがなで、 カタカナは漢字で書け。
問二部 「ひとを二重に異邦人にする」とあるが、ここで言う「二重」に当てはまる例として適当なものを次の中から二つ選び、
記号で答えよ。
ア 旅先の土地には落ち着ける居場所が確保されていないということ。
イ 旅先の土地で時間をともにする親しい人間がいないということ。
ウ旅先の土地の通りの名前を知るために何度も通わなければならないこと。
旅先の土地では水や塩などの命をつなぐものを調達しにくいということ。
旅先の土地の言葉を自由に使うことができないということ。
問三傍線部②「ひとつの道が次第に親しい道になっていき、日々、見知らぬ場所へとひとを運び、再び宿へとひとを戻す」 とあるが、
このような道の働きを別の表現で言い換えた部分として最も適当なものを本文中から二十二字で抜き出し、はじめの八字を答えよ。
問四傍線部(③) 「以前、わたしの友人に、新しい記憶ほど剥がれ落ちてしまうという記憶障害を持っているひとがいた」とあるが、筆者
はこの友人の例を通してどのようなことを伝えようとしていると考えられるか。 「記憶」 「不安」という語句を用いて六十字以内で説
明せよ。
問五線部44 「生きているひとが、わたしも含めて、みんな迷子に見えてくる」 とあるが、これはどういうことか。それについて説明
した次の文中の空欄A~Cに当てはまる語句として最も適当なものを本文中からそれぞれ指定された字数で抜き出せ。
だれもが自分の A(五字) を表出させないだけで、 実は B (十六字) 言い換えれば C (十字)
生きているということ。
を抱えて
問六本文の表現に関する説明として最も適当なものを次の中から一つ選び、記号で答えよ。
ア 言葉遣いのわかりやすい短い文を細やかに積み重ねていくことで、読者の理解を確保しつつ、「道」のもつ芸術的な側面を強調
して述べている。
イ「道」という身近で親しみやすい題材を取り上げ、平易な言葉を用いつつ、文章を論理的に構築することであえて随筆らしさを
打ち消す工夫をほどこしている。
体言止めや省略を多用して文章全体に余韻をもたせつつ、「道」のあり方を通して人が本来あるべき姿について筆者の考えを主
張している。
日常的な言葉を用い、わかりやすいエピソードや比喩を交えて「道」 について語りながら、生きることそのものについてまで思
いをめぐらせている。
哲学の分野で用いられる専門的な言葉をところどころに織り交ぜながら、「道」 についての思索を深め、 人間の生き方について
婉曲的に提案している。
2022年7月
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