✨ คำตอบที่ดีที่สุด ✨
穴埋めなどは完璧ですね。言ったことをしっかり実行してくださったので嬉しいです。
《東北経営》
東北経営とは蝦夷との戦いを指します。
蝦夷とは「朝廷に従わない東北地方に住む人々」です。
780年に蝦夷の伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)という人物が挙兵するという出来事が起こりました。(伊治呰麻呂の乱)
これをきっかけに陸奥と出羽の両国をまたがる大規模反乱に発展し、以後30年以上にわたって蝦夷の反抗が続きます。
そこで桓武天皇は蝦夷を平定(力によって従わない者おさえつけ、一定の領域を支配下に)するために坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、797年には10万の大軍を派遣しました。
なので、このような蝦夷の平定事業(=蝦夷との戦い)のことを徳政論争では「軍事」と表されています。
《平安京造営》
桓武天皇は仏教政治の弊害を断ち天皇の権力を強化するという目的から平城京を離れました。
784年に長岡京に遷都。ですが、10年後の794年に平安京に遷都します。
「なぜすぐに遷都したのか?」
⇒長岡京を二度も洪水が襲ったからです。そのことから場所が悪いとされました。また、弟で皇太子だった早良(さわら)親王のたたりを恐れたからともいいます。
「なぜ早良親王のたたりだと思ったのか?」
⇒以前長岡京造営の最中に、造営責任者である藤原種継が射殺されました。そのときの犯人が早良親王の関係者だったのです。
そこで桓武天皇は仏教勢力とも関係の深い早良親王が犯行に関与していると断定し、島流しを行いました。当然早良親王は無罪を主張し、抗議のため飲食を断ち、島に向かう途中で死去しました。
それから少しして、桓武天皇の母などが原因不明の病にかかりました。桓武天皇はさすがに不安になり、占いをさせたところ早良親王のたたりであるという結果が出ました。
その後も不吉な現象や自然災害が絶たないことから仕方なく平安京を造営し、遷都したといわれています。
なので平安京造営とは遷都するために行う家屋や神社などの建設のことを指しています。なので徳政論争では「造作」と表されています。
新しい投稿見て欲しいです🙇♀️🙇♀️2つほどあるんですけど、もしご存知なら教えて欲しいです🙃
遅くなりました。
確認しましたが、解決したみたいで良かったです☺️
週三レベルで日本史上げてるので出来れば見ていただきたい!😨🙇♀️🙇♀️
そうなんですね。今は、進路準備で忙しいので時間があれば回答させていただきますね😅
とても分かりやすいです!ありがとうございます!!
今後もよろしくお願いします、😅😅🙇♀️🙇♀️🙇♀️🙇♀️🙇♀️