江戸幕府の成立
ごぶぎょう
いしだみつなり
うになった。豊臣政権の将来に危機感を持った五奉行の石田三成は,
けいちょう
だいみょう
あいづ
む ほん
うえすぎかげかつ
1600(慶長5)年,家康が会津の上杉景勝の謀反を口実として諸大名をひ
きいて関東に向かった機をとらえ,五大老の毛利輝元を盟主として兵を
1555-1623
もうり てるもと
めいしゅ
1553~1625
せいぐん
あげた (西軍)。
とよとみひでよし
ひでより
豊臣秀吉の死後,その子秀頼が幼少であったことか
1593-1615
とくがわいえやす
ごたいろう
ら、五大老のひとりの徳川家康が大きな力を持つよ
➡p.131
1542-1616
とうぐん
じゅうぐん
家康は, 従軍していた豊臣系大名の支持をえて軍を引きかえし (東軍)。
せきがはら
関ヶ原の戦いで三成らの軍勢をやぶり, 全国に対する支配権を確立した。
三成は京都で処刑され,輝元が120万石の領地を37万石に削減されるな
ごく
さくげん
かいえき
ぼっしゅう
げんぽう
ぽ
ど,西軍に属した多くの大名は改易 (領地没収), 減封(領地削減),転封
(領地移動)などの処分を受けた。
ちょうてい
せいい たいしょうぐん
1603年、家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ,江戸に幕府を開いた。
➡p.83
えどばくふ
いしん
これを江戸幕府とよび, これから明治維新までの260余年間を江戸時代
➡p.196
せ しゅう
という。家康は,政権の世襲を示すため、 わずか2年後には将軍の地位
ひでただ
ゆず
おおごしょ
を子の徳川秀忠に譲ったが,大御所と称し,政治上の実権をにぎってい
1579~1632
た。一方,豊臣秀頼は、ひきつづき大坂城にあって、秀吉の遺児として
ろうじゅう
うち老中など幕府の役
くにもと
が国許に帰り、残りが
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ばく大な費用を必要とした。 たとえば江戸時代後
かが
期の記録によると、加賀藩の行列は総勢2000人に