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世界史 高校生

世界史のプリントの期末予測問題です。答えがなくあまりよく分かりません。分かるところだけでも大丈夫ですので、答えもしくは意見が欲しいです。よろしくお願いいたしますm(_ _)m‼️

世界史A 期末未対策~歴史の流れをおさらいしよう)~ Iフランス革命~ナポレオンの登場 アメリカ独立革命に続いて、有力な絶対王政の国であるフランスで、 旧体制 (①) を覆す革命が起こった。革 命以前は第一身分から第三身分に分かれており、人口の9割以上が第三身分であった。第三身分の中では富裕層、 下層市民が別々の不満を抱えており、そこに (②) 思想が広まった。1789年には (③) が『第三身分とは何か」 という小冊子で第三身分の権利を主張した。 一方イギリスとの戦争を繰り返したフランスの国家財政は行き詰まり、 国王の(④) はテュルゴーや銀行家の (6)らを起用し、1615年以来開かれていなかった(⑥) を招集した。 5月にヴェルサイユで開かれた(⑥)は 議決方法を巡って紛糾し、第三身分は(⑦) で憲法制定までは (8) を解散しないことを誓った。この行動に国 王と保守貴族は弾圧を開始したため、民衆たちはパリの (⑨) を7月14日に襲撃した。その結果国王と保守派 は特権の廃止を決めた。8月26日、(0) を中心に作成した (0) 宣言を発表した。これに否定的な国王はヴェ ルサイユ宮殿に龍ったため、パリ民衆は(2) を行って国王夫妻にパリに行くようにお願いをした。ようやく1791 年に憲法が完成したが、 国王夫妻は隣国のオーストリアに逃げようとしていた。これを(®) という。これは失 敗し、国王夫妻はパリに連行され自由がなくなった。1791年に開かれた() では革命に対する考え方の違いか ら3つの派閥に分類できる。 自由主義貴族を中心としたフイヤン派と穏健的共和政を主張する(⑤) 派が対立し た。92年には(⑤) 派が政権を握りオーストリアに宣戦をしたが、オーストリアには敗北した。この危機に際し、 義勇軍が集まり戦うことになった。 8月には(6) が起こり、義勇軍によって国王の王権は停止された。こうし て立憲君主制のフランス王国は倒れ、新たに (①) が成立し、フランスは共和国となった。義勇軍はヴァルミー で初めてプロイセン軍を破り、その結果 (①)では(®) 派が力を増し、そのまま国王夫妻を処刑した。処刑に 対して、イギリスの() 首相はヨーロッパ各国に対して (0)結成を呼び掛けた。(®)派は (②) を中心に 政治を行った。彼らは (②) という組織を中心に、徴兵制の導入や革命暦などの作成などの諸改革を実践した。 さらにキリスト教を廃止し、代わりに(3) 崇拝を創始するなどの急進的なことも行った。 (②)の独裁はさら に強まったが、1794年に (②) で権力を失い処刑された。 (B)派の没務後、5人の総裁から成る() が樹立された。しかし5人によって権力は分散されてしまい、 政府としての力は発揮できなかった。そんな中、軍事指導者として() が頭角をあらわした。彼はイタリア遠 征の後、イギリスとインドとの通商を断つ目的でエジプトに遠征した。 エジプト文字が彫ってある(②) はこの 時発見された。(⑥) はアブキール湾でイギリスに敗北すると、イギリスは() を結成しフランスを抑え込も うとした。 (は (②) で (⑤) を倒し、新たに、 3人の統領から成る (30) を樹立した。 I ナポレオン時代 第一統領となったナポレオンは、革命以来フランスと対立していたローマ教皇と和解し、 翌年はピット内閣の 退陣で戦争継続が難しくなったイギリスと講和した。 これを (①) の和約という。内政ではフランス銀行を創設 し、商工業振興を図った。さらに1804年3月私有財産の不可侵などを調った(2) を公布した。 1804年に国民 投票を実施し、ナポレオンはナポレオン1世として皇帝に即位した。この時期のフランスを (③) という。 これ を受けてイギリスやオーストリアは (④) を結成し、再びヨーロッパは戦争状態に入った。イギリス上陸を試み たナポレオンであったが、 (⑤) 提督率いるイギリス海軍に (⑥) で敗れたため、上陸はできなかった。しかし ナポレオンは、大陸部でオーストリアとロシアの連合軍を(⑦) で破り、オーストリアを解体し (8) を作った。 1

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世界史 高校生

世界史A 日清戦争後の中国について 問2がわかりません。 中国分割ですか?

、西洋の技術だけでなく、 憲法や政 治体制などの制度の導入の必要性を主張した。当時の皇帝であった(②) は変法派が説く政 治改革を行ったが、(③) の反撃にあい、わずか 100日でもとの体制にもどった(=④)。そ の間にも A.ヨーロッパ諸国は中国地に租借地を設けるなどして領土の分割を行った。その 後、山東·河北で”扶清滅洋”を掲げて (⑥) が蜂起した。 (5) の活動は民族運動にまで発 展。1900 年には北京の外国公使館を包囲し、外国勢力に宣戦布告をしたものの、B.日本· ロシアを中心とする8か国連合に敗れ(=この出来事を⑥とよぶ)、8か国連合の北京駐留 や多額の賠償金を認める(⑦) に調印させられ、中国の反植民地化はますます進んだ。 そんななかで、中国国内は清朝の打倒を目指す革命派と清朝を維持しつっ国内の制度を 変革しようとする改革派に分断された。革命派の中心人物である (8)は東京において (⑨) を結成し、革命の動きを強めた。1911年には (10) がおこり、清の軍の実権を握っていた (D)の裏切りも手伝って長らく続いた C.清朝は滅亡し、新しく(@)が成立した。 問1.空欄の~1②に当てはまる語句を答えなさい。 問2.下線部 Aについて、このように中国の領土がヨーロッパ諸国によって租借 植民地化 されることを漢字4文字で何というか。

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世界史 高校生

世界史A 東アジアの開国と日清戦争の展開について プリントの問題がわからないです。 ⑨、⑫がわからなくて、他は合ってるのか心配です。

東アジアの開国と日清戦争の展開について以下の文章を読み問いに答えなさい。 16 世紀後半の中国では、1636年に成立した(①) 王朝が最盛期を迎えていた。ヨーロ ツパにおいてはイギリスが中国との貿易を独占していた。この貿易を清はイギリスの (2)とみなし、様々な制限を加えていた。イギリスでは喫茶の習慣が普及したことによ り、清から茶の輸入が増加する一方、(③) が大量に流出した。それを嫌がった A.イギリ スは綿製品をインドに輸出した後、インドで大量の(④)を買い付け、それを清に密輪す ることで見返りとして絹や茶を輸入していた。 清は(④)が国内に流入することに危機感を募らせ、(④)を禁止処分にすると、イギ リスがこれに反対する形で (④) 戦争が勃発した。B.イギリスの圧倒的な軍事力の前に清 は成す術もなく敗北し、(⑤)を結んで戦争は終結した。 その後、清では戦争の費用や賠償金が重税となって国民にのしかかり、(⑥)という人 物が中心となって C.太平天国の乱という反乱がおきたほか、イギリス·フランスの両国を 相手に(の) を引き起こすが、敗戦し外国使節の駐留を認める(®)を締結した。 列強諸国の脅威にさらされるなかで、清はヨーロッパの進んだ技術を取り入れる(⑨) を行い、植民地の獲得に乗り出そうとしていた。そこで清が目を付けたのが朝鮮である。 一方、そのころの朝鮮では清と日本のどちらに従うかについて、内部対立が起きてい た。2つの派閥に分かれた朝鮮国内では (0) や (①) などの混乱が発生し、1894年には (12) という大規模な内戦に発展し、日本と清の両国が鎮圧に向かったことから現地にて 衝突して D.日清戦争が勃発した。 問1.空欄の~Dに当てはまる語句を答えなさい。

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