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発心集の第七第13話(88) 斎所権介成清の子、高野に住む事です。定期テストの問題で、全然分からず困っています。品詞分解して解説していただけませんか??

て、帰り登りにけり。 田舎には、この人を失ひて、父母妻子ども、みな肝心をまどはし、当国隣国いたらぬ隈なく、足手を分かちつ つ尋ね求むれど、いづくにかあるらん。「たとひ命尽きて空しきからとなりたりとも、今一度そのかたちを見 ん」と嘆き悲しむさま、ことわりにも過ぎたり。はてには、国の中ゆすりみちて、見聞く人、涙を落とさぬはな かりけり。 1 とかくいへど、かひなくて月日を送る間に、世の中に隠れなければ、ほどへて後なん、出家せしこと聞こえた りける。つひに、「*高野にこそ住む⑥なれ」と聞きて、泣く泣く消息しけり。「さしも浅からず思ひたりける道 なれば、そむかん事はいふにも及ばず、 文一つだにも書き置かずして、 空しく親の心をまどはせる事なん、いと うらめしけれど、さていかがはせん。心をへて思ふには、また、罪さり所なきにしもあらず。この国にも山寺多 かり。近くてだに聞かまほしきを、かくして雲を隔てたるさかひにかけ離れたる事こそ、いと本意なく」など、 さまざまに書きやれど、間さらになびくにもあらず。 かねて父母なん、わざと京へ上りて、高野の麓に天野といふ所に詣でて、そこに呼び出だして、対面したりけ る。その時、心の中間 おろかならんや。若く盛り◎なりしかたちは、見しものともなくやせ黒みて、ほろほろと ある布小袖など、昔かりにだに見ざりし姿なれば、目もくれ、胸もふたがりて、とみに物言はれず。【とばか り】 ためらひつつ、さまざま日ごろ思ひつめたる事ども、泣く泣く知らすれども、②【はかばかしく】物も言は ず。ただ、「この山へまかり入りし時、また帰り出でじと思ひかため侍りしかど、いとまを申さずして家を出てて 侍りし事の罪さりがたくて、また立ち戻り候ひつれども、あらぬ心にて、かく出で侍るなり。今より後は、たと ひ御尋ね候ふとも、いささかもこれまで出づる事つかまつるまじ。されば、今はこればかりなん限りにて侍るべ し。我を見まほしく思さば、心をおこして仏道を願ひ給へ。この世にては、たとひ思ふばかりそひ奉りたりと も、いつまでか見奉らん。我も人も後れ先立つ習ひ逃れがたければ、せんなく侍るべし」と③ 【つれなく】 答へ 妻はそこまで登りけれど、面を向くべくも覚えざりければ、物のはざまより、わづかにのぞきて、忍びもあ ずよよと泣きけり。父母、姿を見ざりし時よりも、なかなか悲しく覚えて、泣く泣く帰り下りにけり。 (注)*l:高野・・・・・・高野山真言宗の総本山であり、修行の地であった。

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大学の過去問なんですが答えがないので困ってます。 解答例作ってくれる人いませんよねー😔😔

以下の文章を読み、 各問に答えなさい。 今日世界的に、とくにわが国で、 なぜ、 医療が一部の人々の問題ではなくて、広く社会全体の問題になってきたのであろうか。 また、次 の章で扱う 「脳死と臓器移植」 や 「説明と同意」 (インフォームド・コンセント)をはじめとして、多くの緊急の問題が急に浮かび上がり、 いろいろと議論されながら、 どうして大多数の人々を納得させる答を出せないのであろうか。 まず、世界的な規模でいえば、 近代文明の発展と爛熟にともなって、農業生産力の増大により、 世界の多くの地域で人間が 〈え> ら解放されるようになった。 だから、 人間の生存に必然的にともなう 〈病い〉 が注目されるようになった上、 後発地域においても、WHO(世 界保健機構)などの働きかけによって医療体制が整うに至り、隠れていた多くの病気が顕在化して、社会問題化するようになったのである。 とくにわが国の場合には、一九六〇年代以降の急速な経済発展が、 病いと医療との形態をほとんど一挙に変えるようになった。 より具体 的にいえば、検診や医療知識の普及、それに医療の専門分化・組織化によって医療の中心が大病院に移り、地域の開業医中心の治療の時代 に見られた家庭生活と医療との繋がりが切れて、医療が、設備の高度化とも相まって、 特別のもの、近寄り難いものになった。 併せて社会 の高齢化により、 慢性疾患が増えるとともに、一生をどう終えるかという 〈死> への関心と結びついて、 いへの関心が人々の間で広く 一般化するようになった、と言うことができるだろう。 では、このような医療への関心のなかで、事態を深刻にしている医療の問題点、 つまり 「脳死と臓器移植」 や 「説明と同意」 などの多く の緊急問題の背後に潜む問題点として、いかなるものがあるだろうか。 観点によって、 そこにはいろいろなものが浮かび上がってくるだ ろうが、 <臨床の知〉の観点からとくに重要なものとして、次の二つを挙げることにしたい。 (1) 健康への幻想 (2) 科学的医療への妄信、 (3) 医療の陥穽への無自覚である。 これらは、のちに示すように、まったく別々のものではなく、互いに結びついているが、それぞれ の論点を浮かび上がらせるために、一応分けて考えていくことにする。 すなわち、ここでまず、 <健康への幻想〉という第一の問題は、 〈病気〉をどういうものとして捉えるか、ということにかかわる。 一般に は病気とは、健康でない状態、 健康の正常に対する異常な状態、正に対する負を帯びた状態、あるいは少なくとも、健康から逸脱した状態 として捉えられ、見なされている。 しかし、 このように捉えられるときには、実は <健康> とはなにかがはっきり規定されていなければ用 をなさないのだが、多くの場合、 健康とは逆にただ病気でない状態として捉えられているか、それとも心身ともに健常な状態と見なされて いるにすぎない。 ちなみに、 WHO によると、 健康は次のように定義されている。 《健康とは、単に病気や虚弱の欠如ということではなく、 身体的、精神 的かつ社会的に見て完全に良好な状態のことである。〉 (一九四七年) この定義は、たしかに目配りがよく、 一見行き届いているように見え るが、右の〈心身ともに健常な状態>というのと X であり、かえって、これまでの発想によって健康を定義することがいかに難しい か、を示している。 以上のような見方に対して、私自身の病気と健康についての見方を提出することにしようと思うが、まず、こういうところから考えてい こう。 一般にひとは、健康なときには自分の身体のことも健康のことも意識しない。 それを意識するのは、身体の不調なとき、〈病気〉に なったときである。 したがって、現在のように社会生活において <健康> がことさらに強調されるのは、なによりも、病気への対し方が 人々にわからなくなって、 病気をただ怖れる気持がつよいからであろう。 人間というのは、きわめて複雑な仕組みをもった生命有機体であり、精神 身体的な存在である。 だから、その働きに故障が起き、不調 に悩まされるようなことは、いつの時代にもあったし、いつでも病気は怖れられた。 しかし、だからといって、 そのことは、病いをただ、 無意味なもの、あるべからざるものとして、否定したことを意味しない。 病気のために生命の危機感に見舞われることによって、深い生命 に目覚めることは、 多くの人々に見られたところである。 とくに、 内部的生命に敏感な作家や芸術家たちの場合に、それがよく示されているが、なかでも、そのような深い生命の日覚めそのもの を小説化したものとして知られているのは、トマス・マンの 「魔の山」である。 ここで 〈魔の山〉 というのは、スイスの高原にある結核療 養所のことであり、 市民生活から隔離されたおそろしげな場所と見なされている。 ある夏の日に、一人の青年ハンスが、ここに療養中の従 兄を見舞いにやってくる。ところが、 彼も病魔に犯されて入院生活を送るようになり、 しかも彼は、 病気の世界にまったく魅せられてしま う。 というのも、これまで平凡で〈健康な市民〉として生きてきた彼が、そこではじめて見出したのは、病いによるYであったからであ る。 「魔の山」 の作中人物の一人は、こう言っている。 《人間の尊厳性と高貴性は精神に、 病気にあるのであって、 一言でいうと、 人間は病

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宇治拾遺物語の現代語訳お願いしたいです

項目に回を入れよう。 )ロその他 問- 2 「説話 3点 >本誌P6. DJ 3pのがたり す 『宇治拾遺物語』編者未詳 あやしと思ひ この鹿の目の間の、 例の鹿の目のあはひよりも近くて、 目の色もかはりたりければ、 矢を外して火取りて見るに、「鹿の目には て、弓を引きさしてよく見けるに、なほあやしかりければ、 あらぬなりけり」と見て、「起きば起きよ」と思ひて、 近くまはし寄せて見れば、 身は一定の皮にてあり。 「なほ鹿なり」とて、 また射んとするに、 なほ目のあらざりければ、 ただうちにうち寄せて見るに、法師 鹿をり」とて見れば、 この聖目 の頭に見なしつ。「こはいかに」と見て、 おり走りて火うち吹きて、 うちたたきて、鹿の皮を引き被きてそひ臥し給へり。 「こはいかに、 かくてはおはしますぞ。」と言へば、 ほろほろと泣きて、「わ主が制することを聞かず、 いたくこの鹿を殺す。 我鹿に代はりて殺されなば、 さりとも少しはとどまりなんと思へば、かくて射られんとしてをるなり。 口借しう射ざりつ。」とのたまふ に、この男臥し転び泣きて、 「かくまで思しけることを、 あながちにし侍りけること。」とて、 そこにて 刀を抜きて、 弓たち切り、 胡錬みな折りくだきて書切りて、 やがて聖に具して法師になりて、 おはしけるが限り聖に使はれて、 聖失せ給ひければ、 またそこにぞ行ひてゐたりけるとなん。 N 本誌の問題の解答を書きこもう一 |内容|を確認しよう

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意見か事実か分かりません。新聞の記事についてです。 写真の黄色マークしてあるところは新聞記者の意見でしょうか?事実でしょうか。分かる方よろしくお願いします。

どこでも太陽光 実用間 東芝、独自工法を開発 フィルム型で高交 いている。発電効率の低さや量 産化の難しさなどが課題だった が、東芝は9日までに、従来型 と同程度の高効率を実現する独 自の工法を開発。目標とする2 印ヒ ルムの上に転がして塗る手法を 025年の製品化を早めたい考 えだ。 東芝が研究しているのは「ペ ロプスカイト太陽電池」。本体 が重く、パネル設置の適地が少 なくなっていた従来型に対し、 軽量で薄く、折り曲げられるの 量産には広い面積に素早 く塗布する必要があり、両立が 問題だった。 東芝は今回、ローラーをフィ 開発した。 従来よりも工程が少 ない一方、エネルギー変換効攻 は約1割高い6,1%。実用的 な大きなサイズのフィルム型上 しては世界最高という。量産に 必要なスピードもクリアした。 今後は価格引き下げや耐久性 向上が課題となる。発電効率の さらなる改善も目指しつつ、制 品発売を目標の5年から「前倒 ししたい」(担当者)としている。 フィルム型の開発を巡っては 国内外で競争が激化している。 ポーランドのサウレテクノロジ ーズは世界で初めて生産ライン を立ち上げたと発表。国内勢で は京都大発のベンチャー「エネ コートテクノロジーズ」(京都 市)が製品化を目指している。 東芝が開発しているフィルム型の 「ペロプスカイト太陽電池」(同 社提供)

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