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四帝分治とは、ローマが4つに分裂したわけではありません。
広大な領地を効率的に支配するため、領地を東西半分にわけ、それぞれに正帝をおきました。そして、その東西の正帝に、それぞれ副帝をおいて、領地の北半分を治めさせました。
つまり、帝国を四分割して、東南を東の正帝が、東北を東の副帝が、西南を西の正帝が、西北を西の副帝が治めた、ということです。
領地を分割して治めただけであって、国自体が分けられたわけではありません。
東西の正帝、副帝が同等の権力を持っていたわけではなく、東の正帝・ディオクレティアヌスが決定権、決裁権を独占しており、他の3人は、ディオクレティアヌスの代理として統治にあたりました。
ディオクレティアヌスの死後、四帝分治はうまくいかなくなり、混乱期が続きました。
そんな中、東の正帝についたテオドシウス帝が、西ローマを侵略して、実質的に東西ローマを単独支配しました。
そして、395年、テオドシウス帝は死に際して、2人の息子に、東ローマと西ローマを分担統治させました。
まとめますと。
四帝統治は、国が分割されていたわけではない。
しかし、混乱期に東西にわかれていた。
それをテオドシウス帝が単独支配したが、その死後、また分割して、息子たちに治めさせた。
...となります。
なるほど、分かりました!
ありがとうございます!!