教科書の79ページを見てください。9世紀末から10世紀前半にかけて,政府が国司に一国の支配を任せるようになり,任国に赴任する国司の最上席者を受領と呼ぶようになったとあります。このように地方支配が変わっていったことで,国司が実際に民衆支配をになっていた郡司(このことは教科書48ぺにあり)を通して統治をする仕組みから,国司(受領)が都から連れてきた郎党や郡司を指揮しながら地方を直接支配するしくみに変わります。このことは,下の欄外の注③にも郡家の役割が衰えたというように書いています。教科書によっては,国-郡-里の上下の支配から,郡=郷=保の並立などと書いている場合もあります。では,郷や保がどのようにして生まれたのかということ,受領が気候変動によって荒廃してしまった田地を,有力農民や土着した国司の子孫らに,臨時雑役などの免除の特権を与えて開発をさせたということが教科書の80ページにありましたね。そのような開発によって私領を手に入れた者たちを開発領主と言います。開発した土地は郷や保と呼んで,郡から独立した行政区画となります。このような経緯で,郡から開発された土地が分離して郷や保と名付けられるようになりました。いかがでしょう?
日本史
高校生
…国内を郡、郷、保の単位に再編成……とあったり、国 郡 里、荘 郡 郷とあったり、
それぞれ混同してしまってよくわかりません💦
ご教示頂けると幸いです
六李下にある公仙で力をのばしてきた
朱族や開発領主に対し国内を部・
2開 は
郷・保な どの新たな単位に再編成し.
彼らを入司卿本人に任合して後
(8O
税を請け負わせた。また箇所・科
Bl などの国衛の行政機構を整備し 代宮
正明 として派遣した目代の指揮のもとで符
ちょうかんじん
荘園公領制仕組み 店 官人に実務をとらせた。
にpe
在庁官人や郡司らは, 公領をみずからの領地のように
jn 管理したり, 荘園領主に寄進したり したため, かつての
律令制度のもとで国・郡・里(施)の上下の区分で構成さ
れていた一国の編成は,荘・郡・郷などが並立する荘園
にp40
と公領で構成される体制(笠園公領制) に変化していった。
この整備された荘園や公領では, 耕地の大部分は 名
p9
記 。 とされ 由などの有力な農民に割り当てられたが, 田
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