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江戸幕府は開国した人たちです。
尊王と攘夷はもともと別の言葉です。
当時の孝明天皇は強硬な攘夷を唱えていたので、尊王派の武士もまた強硬な攘夷に傾いていきます。ただし孝明天皇は幕府の存在には一定の理解を示しており、批判はすれども天皇・尊王攘夷派に倒幕の発想は基本的にありません。
しかし、尊王攘夷の中心であった長州藩が、下級武士の高杉晋作らがクーデタで藩政の実権を握る頃には、外国船をとにかく打ち払えといった強硬な攘夷論は消えていきます。
同時に、幕府を見限りつつあった薩摩と連合し、新しい国づくりを構想していきます。
この段階になり、幕府(徳川氏)を除いた新政権構想が浮上し、薩摩・長州を中心に武力討幕という方向性が初めて出てきました。
大前提として、公武合体と尊王攘夷は本来相反するものではありません。
久光の発想は公武合体をし、雄藩を含めた幕府改革をすることで、諸外国に対抗できるような幕府を中心とする国家作りを目指していたと思われます。したがって、とにかく大砲ぶっ放してでも外国を追い払うという攘夷論ではなかったですが、外国勢力が日本に進出することを積極的に容認したわけではありません。その証拠に、生麦事件が起きているわけで…
さて、久光も程度は違えど、攘夷には違いなかったのです。薩摩藩の中でも、特に下級武士のなかには過激な攘夷論・倒幕論を唱える者や公武合体自体に反感を覚える者もいました。そこで、反対派を粛清するために寺田屋事件が起きます。
また、天皇は攘夷を望んでいますが、倒幕を望んでいるわけではありませんので、久光の幕政改革を後押しすることで、攘夷実行に結びつけていく思惑があったのではないでしょうか。
あまり自信がない所もありますが、一応これで整合性は取れると思います。
こんなに詳しく本当にありがとうございます!
理解することができました>_<!!
日本史頑張ります(^^)
詳しい回答ありがとうございます>_<!!!!
あの、文久の改革の過程のところで、島津久光が京都に向かう途中に起こした寺田屋事件は、公武合体派の久光が、薩摩藩の中の過激な尊王攘夷派を制圧した事件と書いてあったのですが、そのとき薩摩藩は公武合体派と尊王攘夷派に仲間割れしてたということですか?また、久光は攘夷を考えていない公武合体派で、朝廷は尊王攘夷派ですが、朝廷が久光の大原重徳の護衛という名目で江戸に行きたいという要求を受け入れたのはなぜですか?また、幕府は朝廷とは反対の考え方なのになぜ、朝廷から来た久光の文久の改革の要求を受け入れたのはなぜですか?
ぴょんさんがおっしゃった天皇側が幕府に一定の理解を示ししていたというのが関係しているのでしょうか?本当に長々とすいませんm(__)m