2枚目のプリントはおそらく先生が作られたと思うのですが、大きな誤りがあります。それは参勤交代は大名の財力を削ぐのが目的の部分です。これはとっくの昔に歴史学者により否定されています。あくまで財力を削ぐのは副産物なのです。元々参勤交代は室町時代からありました。それは制度としてではなく、慣例としてです。
想像してください、中学時代の同窓会的なパーティーがあったとして、そこにお世話になった先生も参加しているとなった時に、常識的に「あの時はお世話になりました」と挨拶しに行きますよね?同じような感覚です。将軍様に忠誠を誓う証として、どうもお世話になっております〜という形で顔を見せに行く事で、「こいつは逆らう気が無いんだな」「よしよし可愛いやつめ」となるただそれだけの事です。
(ただそれだけではあるがすごく重要。秀吉の小田原攻めも北条が上洛して秀吉に会いに来る事をしなかったのが口実)
そんな慣例が家康時代にも当然あり、最初は親しい連中だけやってたものが、他の大名が「やばい!謀反を疑われるかも!」と勝手に焦り、俺も俺も状態になりました。で、幕府側の都合も考えず勝手に不特定多数が江戸に大挙して押し寄せてきたら迷惑だからルールを定めたというのが参勤交代の真の目的です。
日本史
高校生
この問題なんですけど、2枚目のとこをまとめればよいのは、分かるのですが、うまくまとめられません!誰か教えてくださるとありがたいです
参勤交代はどのような仕組みか説明しその狙いについても説明しなさい。
(12番交代) (参観交替)
武家諸法度(寛永令)の中で軍役の一種として定められる。
・全国の大名を1年交代で国元と江戸に住まわせ、その妻子は人質として、常に江戸に
住まわせておくという制度(全国の大名の半分が江戸に、もう半分が国元にいる)。大
名は江戸に藩邸(大名屋敷)を作り、 妻子を住まわせ、自分も江戸参勤中は家臣と共
にそこに住み、 江戸城の防備などの任務についた。
I
が追加された。
..
・この制度の目的は大名を幕府の監視下におき、江戸での生活や江戸までの往復の道中
(格式に応じて大名行列を組んだ 102万石の加賀藩で約 2500人)に多くの費用を
かけさせ、 財力を弱めることにあった→結果的に江戸や道中の宿駅は繁栄。
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