日本史
高校生

安政の大獄の背景の認識が不安です。

ペリー来航がきっかけとなり
西洋の文化を取り入れようとする幕府(井伊直弼)と
西洋反対派の外様大名が対立し、
幕府に反発した人たちを処罰したこと。

この認識で正しいですか?

安政の大獄 井伊直弼

回答

もともと江戸幕府の政治は、幕閣の独裁でした。ですから文化史などにありますが、幕政を批判した学者が処罰されるようなことがありました。それは幕府がする政治に、それ以外は口を出せないということなのです。それは、親藩大名や外様大名もでした。
安政の大獄は、教科書では「条約の違勅調印は孝明天皇の怒りをまねき、一橋派の大名や尊王と攘夷をとなえる志士たち・・・これに対して井伊は強硬な態度で反対派の公家・大名をおさえ、その家臣たち多数を処罰」とあります。
井伊が弾圧した反対派には、条約の違勅調印をすることに対して尊王や攘夷の立場から反発をした人々や違勅調印を強行する幕閣独裁に反対する人々がいました。
後者については、ペリー来航をきっかけに老中阿部正弘がその対応について諸大名にも意見を述べさせるという、これまでの幕閣独裁とは反対のやり方でペリー来航という危機に対応しようとしました。その後、安政の改革では、親藩大名の徳川斉昭や越前藩主の松平慶永、外様大名である徳川斉彬らが政権に参加します。このことは、これまでの幕政のやり方を大きく変えることでしたから、幕閣を形成していた譜代大名が強く反発することになりました。この対立が、13代将軍家定の将軍継嗣問題での一橋派と南紀派の対立につながります。この結果、譜代大名勢力の南紀派が巻き返しに成功し、安政の大獄によって幕政から一橋派の排除に成功するのです。
桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、幕閣独裁路線は後退します。そして、島津久光の文久の改革により、松平慶永ら一橋派が復権するのですが、薩摩藩はその後、次第に武力倒幕路線をとるようになったのです。

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