国語
中学生

この文章の四角Cには「かわず」という言葉が入るんですが、なぜかわずなのか教えて欲しいです🙇‍♀️

あとの問い! 砂漠は私たちの住む日本の風土の反対の極と言ってもいいであろう。稀辻哲郎はあの有名な『風土』という書物の中で、世界の風土 をモンスーン型、牧場型、砂漠型の三つに分け、砂漠型を私たちの住むモンスーン型風土の対極に置いた。そして、モンスーン型の日 本人がインド洋を抜けてアラビア半島にたどりついたときの衝撃を記している。その衝撃とは、「人間いたるところに青山あり」など と考えているモンストン型日本人が、どこをどう見回しても青山など見あたらぬ乾ききった風土に直面した驚きだと言う。 *じんかん せいざん たしかに、砂漠は、青山的な私にとって衝撃そのものだった。そこにあるのはただ砂と空だけなのだから。けれど、そうした砂の世 界に何日か身を置いてみると、 砂は私に何事かをささやきはじめた。そして、不思議なことに、今度は自分が住んでいるモン スーン型の日本の風土や、そこにくり広げられている生活が〝世界〟のように思えてくるのである。 B 砂漠には何もない。何もないということが当然のようになってくると、逆に、なぜ日本の生活にはあんなにもたくさんのものがある のか、奇妙に思えてくる。あんなに多くのものに取り巻かれなければ暮らしていけないのだろうか、と。 それらのものは、 全部余計なものではないのか。余計なものに取り巻かれて暮らしているから、余計な心配ばかりが増え、肝心の生きる意味が見失われ てしまうのではないか・・・・・・。しかし、待てよ、と私は考える。生きていくのに必要なものだけしかないということは、文化がないとい うことではないか。 生きていくうえに必要なもの、それを上回る余分のものこそが、実は文化ではないのか。文化とは、言ってみれば、 余計なものの集積なのではないか。だとすれば、砂漠を肯定することは、文化を否定することになりはしまいか・・・・・・。 それにしても――と私はさらに考え直す。私たちはあまりにも余分なものを抱えこみすぎているのではなかろうか。 余分なものこそ 文化にはちがいないが、さりとて、余分なもののすべてが文化であるわけもなかろう。 余分なものの中で、どれが意味があり、何が無 価値であるか、それをもう一度考え直す必要がありはしまいか……。 砂漠とは、こうした反省を私にもたらす世界である。砂漠は現代の文明社会に生きる人びとにとって、一種の鏡の国と言ってもいい ような気がする。 私は砂漠に身を置くたびに、ある探検家がしみじみともらした次の言葉をかみしめる。 「砂漠とは、そこへ入りこむ 先には心配で、そこから出て行くときにはなんの名残もない、そういう地域である。 砂漠には何もない。ただ、その人自身の反省だけ があるのだ」私は、砂漠に自分自身の姿を見に行くのである。 3. 砂漠は、私たち日本人が考えがちなロマンチックな場所ではけっしてない。王子さまとお姫さまが月の光を浴びながら銀色の砂の上 を行く――などというメルヘンの世界ではない。 昼と夜とで温度は激変し、一瞬のうちに砂嵐が天地をおおってしまう、そういうおよ である私は、こうした砂の世界に足を踏み入れたとたん、いつも後悔する。よりに 非情な世界である。日本という井の中の よって、なんでこんなところへ来てしまったのか! だが、その後悔は、やがて反省へ変わり、さらに希望へと移っていく。生きるこ とへの希望へ。 この意味で、砂漠こそ最もロマンチックな場所であり、メルヘンの世界だと私は思う。なぜなら、そうした"世界"へ行こうとす ることこそが、現代ではいちばんロマンチックな行為のように思われるからだ。 メルヘンの世界とは、さかさまの国のことである。だ とすれば、砂漠行こそ、まさしくメルヘンの国への旅ではないか。 もりもとてつろう (森本哲郎「砂漠への旅」<『すばらしき旅』所収〉より) *モンスーン型=季節風に支配される湿度の高い地域の風土。 (骨を埋める場所)があるのだから、広い世間に出て

回答

「井の中の蛙(かわず)(大海を知らず)」

井戸の中の蛙が、それ以上の広い世界である海を知らないように、他に広い世界があるのに自分の周りの世界だけで物事を考えていること。

みみ

ありがとうございます🙇‍♀️

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