日本史
高校生
解決済み

高2 日本史 鎌倉時代
明日のテストの対策プリントです
答えを配布してくれなかったので、解答を教えてください!!!!
大門1だけとか、少しでも助かります😭

く鎌倉時代プレテスト> 1ほに 「次の文章を読んて, ( 1 )~( 15 )に適当な語句を下の語群から記号で選び、あとの問いにも答えなさい。 平清盛が後白河法皇を幽閉し,1180年に孫の( 1 )天皇を位につけると, 地方の武士団や中央の貴族·大寺院の中には, 平氏の専制政治に 対する不満がうずまき始めた。この情勢をみた後白河法皇の皇子( 2 )と,畿内に基盤をもつ源氏の( 3 )は,平氏打倒の兵をあげ,挙兵を呼 びかける(2 )の命令が諸国の武士に伝えられた。 これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ちあがり,つづいて伊豆に流されていた源頼朝や信濃の木曽谷にいた(4 )をはじ め,各地の武士団が挙兵して,ついに内乱は全国的に広がり, 5年にわたって争乱が続いた。 平氏は当初,都を( 5 )に移した。( 5 )は近くに良港( 6 )があり, 瀬戸内海支配のための平氏の拠点であったが,この遷都には大寺院や貴 族たちが反対したため,約半年間でまた京都に戻し,平氏は機内を中心とする支配を固めてこれらの動きに対応した。しかし,清盛の突然の死 や,畿内西国を中心とする( 7 )の飢僅などで平氏の基盤は弱体化し, I183年,北陸で( 4 )に敗北すると,平氏は( 1 )天皇を奉じて西国 に都落ちした。その( 4 )を,院と結んだ源頼朝は弟の( 8 ) 義経らの軍を派遣して減ぼすと,さらに平氏と戦い,摂津の( 9 ),讃岐の( 10 ) の合戦を経て,ついに1185年に( 11 )の壇の浦で平氏を滅亡させた。 その後,頼朝は逃亡した義経をかくまったとして奥州藤原氏を滅ぼすと,I190年には上洛して( 12 )となり, I192年,後白河法皇の死後に は,征夷大将軍に任ぜられた。こうして鎌倉幕府が成立してから滅亡するまでの時代を鎌倉時代と呼んでいる。 幕府の支配機構は,簡素で実務的なものであった。鎌倉には中央機関として,御家人を組織し統制する( 13 ),一般政務や財政事務をつかさ どる( 14 )(初めは②公文所), ③裁判事務を担当する( 15 )などがおかれ,京都からまねいた下級貴族を主とする側近たちが将軍頼朝を補 佐した。 地方には@守護と地頭がおかれた。守護は原則として各国に一人ずつ, 主として東国出身の有力御家人が任命されて,⑤大犯三カ条などの 職務を任とし,国内の御家人を指揮して平時には治安の維持と警察権の行使に当たり,戦時には国内の武士を統率した。また在庁官人を支配 し,とくに東国では国街の行政事務を引き継いで, 地方行政官としての役割も果たした。 地頭は御家人の中から任命され,任務は年貢の徴収·納人と土地の管理および治安維持であった。それまでの下司などの荘官の多くは,新た に頼朝から任命を受けた地頭となり, 広く御家人たちの権利が保障された。 《語群》 ア,源範頼 イ,源頼政 ウ, 源頼家 エ,源義仲 オ,以仁王 カ,護良親王 キ, 高倉天皇 ク,安徳 ケ,右近衛大将 コ,太政大臣 サ,平城京 シ, 福原京 ス,養和 セ,天明 ソ,富士川川 タ,長門 チ,屋島 ツ,ーの谷 テ,問注所 ト, 政所 ナ,京都守護 ニ,侍所 ヌ,大輪田泊 ネ,大宰府 問1 下線部のの公文所の初代長官(別当)となった人物名を答えなさい。 問2 下線部3の裁判事務を担当する初代長官(執事)となった人物名を答えなさい。 問3 下線部のの守護·地頭が設置された年代を,次の中から選び記号で答えなさい。 ア,I180年 イ, 1183年 ウ, I185年 エ,1188年 問4 下線部のの大犯三カ条としてあてはまるものを,次の中からすべて選び記号で答えなさい。 ア,諸国の御家人に天皇·院の御所を警護させる京都大番役の催促 イ,大宰府の監督 ウ,謀反人·殺害人の逮捕 エ,六波羅探題で,西国の御家人の統轄 2 次の文章の(1)~(10)の下線部分は,すべて誤っている。正しい語句を下の語群から記号で選び,( A )~( E )には適当な人名·語句を書 き入れ,あとの問いにも答えなさい。 幕府政治はすぐれた指導者である源頼朝が将軍独裁の体制で運営していたが,頼朝の死後,若い( A )と(1)義朝の時代になると,御家人中 心の政治を求める動きが強まった。それとともに有力な御家人のあいだで政治の主導権をめぐる激しい争いが続き, 多くの御家人が滅んでいっ た。その中で勢力をのばしてきたのが,伊豆の在庁官人出身の北条氏である。 1203年,頼朝の妻北条(2)時子の父である( B )は,将軍の( A )を廃し,弟の(1)を立てて幕府の実権を握った。この( B )の地位は執権と 呼ばれて,子の義時に継承されたが,さらに義時は,侍所の長官であった(3)大江広元を滅ぼし,政所と侍所の別当を兼ねてその地位を固めた。 これ以後,執権は北条氏一族のあいだで世襲されるようになっていった。 京都の朝廷では, 幕府の成立と勢力の拡大に直面して,これまでの朝廷の政治の立直しがおこなわれた。その中心にあったのが後鳥羽上皇で ある。上皇は,分散していた広大な皇室領の荘園を手中におさめるとともに,新たに(4)滝口の武士をおいて軍事カの増強をはかるなど院政を 強化し,幕府と対決して朝廷の勢力を挽回する動きを強めた。 その中で1219年,上皇との連携をはかっていた将軍(1)が( A )の遺児(5)千幡に暗殺される事件がおきると,これをきっかけに,朝幕関係が 不安定になり,上皇は,畿内·西国の武士や大寺院の僧兵,さらに北条氏の勢力増大に反発する東国武士の一部をも味方に引き入れて,ついに の北条義時追討の兵をあげた。 しかし,上皇側の期待に反して,東国武士の大多数は源頼朝の妻の呼びかけに応じて結集し,戦いにのぞんだ。幕府は,義時の子(6)為朝,弟 の時房らの率いる軍を送り京都を攻めた結果,1カ月ののち,戦いは幕府の圧倒的な勝利に終わり,の3上皇を配流した。これが( C )である。 乱後,幕府は皇位の継承に介入するとともに,京都には新たに( D )をおいて,朝廷を監視し,京都の内外の警備,および西国の統轄に当たら
日付:1月7日 2年1組 番名前: せた。また,上皇方についた貴族や武士の所領3000余カ所を没収し,戦功のあった御家人らをその地の地頭に任命した。 (C)後の幕府は, 3代執権北条(6)の指導のもとに発展の時期を迎えた。(2)の死後, (6)は、執権を補佐する(7)管領をおいて北条氏一族中 の有力者をこれにあて,ついで有力な御家人や政務にすぐれた(8)15名を評定衆に選んで,執権·(7)とともに幕府の政務の処理や裁判に当た らせ,合議制にもとづいて政治をおこなった。合議制の採用や④御成敗式目の制定, 京都の文化を積極的に取り入れるなどして,執権政治の隆 盛をもたらした(6)の政策は,孫の執権(9)重時に受け継がれた。(9)は1247年に,(10)梶原景時⑤一族を滅ぼして,北条氏の地位を不動のも のとすると,朝廷には政治の刷新と制度の改革を求めた。また(9)は,評定衆の会議である評定のもとに新たに(E )をおいて( E )衆を任命し, 御家人たちの所領に関する訴訟を専門に担当させ,敏速で公正な裁判の確立につとめた。 《語群》 ア,実朝 イ,公暁 ウ, 富子 エ, 政子 オ, 泰時 カ, 信西 キ, 時頼 ク,和田義盛 ケ,三善康信 コ,三浦泰村 サ,北面 シ, 西面 ス,連署 セ,別当 ソ,11名 タ, 13名 チ, 17名 問1 下線部のに関連して,次の中から誤っているものを一つ選び,記号で答えなさい。 ア,後鳥羽上皇を隠岐に流した。イ,順徳上皇を佐渡に流した。 ウ,仲恭天皇を伊豆に流した。エ,土御門上皇を土佐(のちに阿波)に流した。 問2 下線部のの御成敗式目について述べた文として誤っているものを一つ選び,記号で答えなさい。 ア,式目は頼朝以来の先例や,道理とよばれた武士社会での慣習·道徳にもとづいて,守護や地頭の任務と権限を定めた。 イ,貞永式目ともよばれ,全51カ条からなり,女性が養子を迎えることなどを禁止していた。 ウ,幕府の勢力範囲を対象とする式目と並んで,朝廷の支配下にはなお律令の系統を引く公家法が,また荘園領主のもとでは本所法が,まだそ れぞれの効力を持っていた。 エ,必要に応じて発布された個別の法令は式目追加とよばれ,のちの室町幕府の法令も,建武年間以後の式目追加という意味で建武以来追加 とよばれた。 問3 下線部のの戦いを何とよんでいますか。 3 次の文章を読んで,( 1 )~( 10 )にあてはまる語句を下の語群から記号で選び,あとの問いにも答えなさい。 13世紀初め,モンゴル(蒙古)高原に( 1 )が現われ,モンゴル諸部族を統合して中央アジアから南ロシアまでを征服した。ついでその後継者は ヨーロッパ遠征をおこない,また金を滅ぼして広大なユーラシア大陸の東西にまたがる大帝国を建設した。( 1 )の孫( 2 )は,中国を支配する ため都を(3 )に移し,国号を元と定めると,高麗を全面的に服属させ, 日本に対してたびたび朝貢を強要してきた。 しかし,時頼のあとを継承したの幕府の執権がこれを拒否したので,元は高麗の軍勢もあわせた約3万の兵で,I274年,対馬·壱岐を攻め,大 挙して九州北部の博多湾に上陸した。幕府は,九州地方に所領をもつ御家人を動員して,これを迎え撃ったが,元軍の集団戦やすぐれた兵器に 対し,の日本軍は苦戦におちいった。しかし元軍も損害が大きく,内部の対立などもあって退いた。これを( 4 )という。 その後,幕府は再度の襲来に備えて,博多湾岸など九州北部の要地を御家人に警備させる( 5 )を強化するとともに,博多湾沿いに石造の (6 )を構築させた。そこに南宋を滅ぼした元が,ふたたび日本の征服をめざし,1281年,約14万の大軍をもって九州北部にせまった。ところが 博多湾岸への上陸をはばまれているあいだに暴風雨がおこって大損害を受け,ふたたび敗退した。これを( 7 )という。 元はその後も日本征服を計画していたので,幕府も警戒態勢をゆるめず,九州地方の御家人を引き続き( 5 )に動員した。また御家人以外に, 全国の荘園·公領の武士をも動員する権利を朝廷から獲得するとともに,蒙古襲来を機会に西国一帯に幕府勢力を強めていった。とくに九州の 博多には北条氏一門を( 8 )として送り,九州地方の政務や裁判の判決,御家人の指揮に当たらせた。 幕府の支配権が全国的に強化されていく中で,北条氏の権力はさらに拡大し,なかでも家督をつぐ③得宗の勢力が強大となった。それとともに 得宗の家臣である御内人と本来の御家人との対立が激しくなり, ④1285年に⑤御内人の中心人物(内管領という)の( 9 )が有力御家人の (10 )を減ぼした。 《語群》 ア,安達泰盛 イ, 和田義盛 ウ, 竹崎季長 エ,平頼綱 オ,チンギス=ハン カ,オゴタイ=ハン キ,フビラ ケ,文禄の役 コ,文永の役 サ,異国警固番役 シ, 鎮西探題 ス, 奥州探題 セ,防塁 ソ,水城 タ,吐蕃 チ,大都 ン ク,弘安の役 問1 下線部のについて,ときの執権とは誰のことですか。 問2 下線部のについて,元軍の集団戦に対して日本は主にどのような戦い方をしましたか。 問3 下線部3の得宗の意味を簡単に説明しなさい。 問4 下線部のの年代は,誰が執権でしたか。 問5 下線部⑤の事件名を何とよんでいますか。

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大門1
(1)ク
(2)オ
(3)イ
(4)エ
(5)シ
(6)ヌ
(7)ス
(8)ア
(9)ツ
(10)チ
(11)タ
(12)ケ
(13)ニ
(14)ト
(15)テ
問1、大江広元
問2、三善康信
問3、ウ
問4、アとウ

大門2
A、源頼家
B、北条時政
C、承久の乱
D、六波羅探題
E、引付
(1)ア
(2)エ
(3)ク
(4)シ
(5)イ
(6)オ
(7)ス
(8)ソ
(9)キ
(10)コ
問1、ウ
問2、イ
問3、宝治合戦

大門3
問1、北条時宗
問2、一騎討ち戦法
問3、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。
問4、北条貞時
問5、霜月騒動
(1)オ
(2)キ
(3)チ
(4)コ
(5)サ
(6)セ
(7)ク
(8)シ
(9)エ
(10)ア

間違えてたらすみません💦

本当にありがとうございます!!!!!
やる気出ました!!頑張ります!!!

日本史のテスト74点取れました!😊🎶

おめでとうございます㊗️

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