日本史
高校生
解決済み

室町幕府の半済政策の目的とは何でしょうか。
教えて頂きたいです🙇‍♂️

回答

✨ ベストアンサー ✨

①南北朝の動乱期において、兵糧米の不足に対応するため守護の収入を担保した。また、北朝側の守護の裏切りを未然に防ぐという意図もあった。

②従来の守護の大犯三ヶ条や刈田狼藉の取り締まり権、使節遵行権に加えて、財産権と行政権を保障するため。

(解説)
初回の半済令は1352年で、南北朝の動乱の真っ只中です。単純に兵糧米が不足するといった事情もあったので、食料確保の目的もありました。当時は南朝北朝ともに裏切ったり裏切られたりは当たり前で、北朝側の味方が南朝側に寝返ることも多々ありました。当時の幕府は北朝方です。
ただでさえ力をつけつつある守護に裏切られて南朝側に付かれると困りますよね。守護が裏切るとその配下である国人や下人などの地方武士も一緒に裏切ってしまいます。そこで、半済令で収入を確保させて守護に裏切られないように保険をかけるという意図もあったのだと思われます。

また、鎌倉時代の守護の権限が大犯三ヶ条のみ、つまり守護の権利は警察権のみでした。室町時代になり、守護はさらに刈田狼藉の取り締まり権と使節遵行権を与えられました。これは裁判を黙って受けさせる権利、裁判を執行する権利のことで、いわば司法権です。警察権と司法権を兼ね備えた守護は強大化し、守護大名が独自の守護領国制のもと諸国にゆるやかな支配体制を広げていきました。守護大名が国人などの地方武士と主従関係を結ぶためにはある程度の財源、カリスマ性が求められました。そこで、半済令を出して守護の収入を増やし、その収入を国人などどに分給させ、ゆるやかな主従関係を結ばせるといった目的もあったのです。守護が財産権と行政権も獲得したということです。1368年の半済令では米ではなく土地で分給されるようになります。土地を分給することで、より主従関係を強固なものにしようとしたのです。上下関係がはっきりすると自国の統治も容易になりますよね。これが行政権です。
ただ、このせいで守護の権力が大きくなりすぎたので、南北朝統一後は、土岐康行の乱や明徳の乱、応永の乱など、足利義満によって有力守護大名が討伐されていきます。

①、②はそれぞれ違う視点から記述しているので、試験等では他に条件が無い限りどちらの理由を答えても正解になるかと思われます。

ゲストね

ありがとうございます!!!

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