✨ ベストアンサー ✨
憲政党(旧自由党)の側に政府に妥協できるところは妥協し、その代わりに大臣のポストを手に入れたり、自分たちの要求を政策に反映させようとしたからです。旧自由党は地租増徴を成立させたのち、山県に批判的になっていきますが、伊藤博文が立ち上げた新党に参加します。旧自由党の中に藩閥と結びついて政権を取りたいという思いがあったのです。
なぜ一度は反対した地租の増徴を認めたのかというのは、日清戦争後の産業革命により経済が発展し米価が上昇傾向にあったことがあげられます。小作料を現物で受け取る地主にとって、米価の上昇は現金収入の増加となりますから、生活に余裕が生まれます。そうなると、地租増徴に対する理解は得られやすかったのです。山県は地租増徴を5か年の期限を設けて妥協しているので、それも受け入れやすかった要因だといえます。