✨ ベストアンサー ✨
最終的には尊王だけが残りました。
薩長はどちらも尊王攘夷でしたが、それぞれ薩摩藩は薩英戦争で、長州藩は四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)で外国の強さを思い知りました。
なので薩長同盟は攘夷を捨て、尊王を目指そうとして組んだものです。
そして公武合体は幕府と朝廷が協力する考えでしたよね。しかし、幕府は大政奉還をして天皇に政権を返しました。それにより、幕府は滅亡したので公武合体は叶いません。
そして明治新政府が政治をおこなうようになったのですが主に旧薩摩藩や旧長州藩などの薩長土肥の出身者が政治を独占するようになりました。
この政治に不満をもち、板垣退助らが民撰議院設立の建白書を提出し,これをきっかけに国民の政治参加を求めて,国会の開設などを要求する自由民権運動が始まりました。
国会開設にひかえて政府はドイツの憲法を手本に憲法の下書きが作りました。さらに内閣制度をつくり、伊藤博文を初代内閣総理大臣に任命。
そして大日本帝国憲法を発布。天皇が国の最高権力者であるとされました。
のちに、制限はありましたが,選挙で選ばれた人が帝国議会に参加できるようになりました。
このように憲法を制定し、憲法にもとづいて議会で政治を行うことを立憲制といいます。
こんな感じでどうでしょうか。
薩摩ではなくて長州が公武合体派と書いていたんですか?
長州は尊王の考えが強すぎて、勝手に譲位運動をするほどです。もちろん公武合体の考えをもった人も少数いるかもしれませんが長州はもとから尊王攘夷だと思います。薩摩と長州が対立していたのも薩摩が公武合体派で長州が尊王攘夷派という背景があったからです。
長州が公武合体派と書いているなら、自分には分かりかねます。申し訳ないです。
すみません!!!私がノートに書き写し間違えていたみたいで、薩摩が公武合体、長州が尊王攘夷でした、、、、、😭
本当にすいませんでした!
大丈夫ですよ。
解決したのなら良かったです☺️
引き続き勉強頑張ってください👍
ありがたいです🙏🏻🙏🏻
外国の強さを知った→攘夷が無理ということで、尊王だけが残ったんですね!ありがとうございます!
長州は公武合体側と教科書に書いてありましたが、尊王攘夷側だったんでしょうか?🤔
なるほど、このようにして伊藤博文や立憲制につながっていくんですね!ありがとうございました!