第2編 中 世
4【平安末期の文化】次の文章を読み, 空欄( ① )~( ③ )に適する語句を答えよ。
平安時代の末期になると,庶民や武士の台頭によって新しい文化が生まれた。「(① )」は後白河上皇
が民衆の間で流行していた今様をまとめたものである。インド·中国 日本から説話を集めた「( ② )」
は庶民や武士の生活に題材を求め,軍記物語である「( ③ )」や「陸奥話記」などは戦乱と武士の戦いを主
題にしている。武士や庶民の台頭に対し,『栄華(花)物語」や「大鏡」など貴族の全盛期を懐かしむ( ④ )
も著された。
この時代の特徴的な絵画である絵巻物には,大和国の長者伝説に題材を求めた「(③ )」, 応天門の変
を描いた「( 6 )」などがある。(① )が安芸の厳島神社に奉納した「平家納経」もこの時代の優れた
絵画である。
浄土教思想も全国に広がり, 阿弥陀堂が建築された。奥州藤原氏による平泉の( ③ )や陸奥の白水阿
弥陀堂,豊後の( ③ )などがある。
Yョうじんのレょう
日
いまよう
つわき
えい が
おおかがみ
手に
えまきもの
おうてんもん
台の
あき
いつくしま
のうきょう
うり、
あ みだどう
こる
しらみず
ぶんこ
0 深座秘物
④ 栄花物語:?
の名皆物語集
将門記
件大納害絵を
雷費書大堂
中噌等金営堂
おお
5[鎌倉幕府の成立】次の文章を読み, 空欄( ① )~( ⑤ )に適する語句を答えよ。
1180年,平清盛が孫の安徳天皇を即位させると、以仁主は( 0 )とともに平氏打倒のため挙兵した。
この挙兵は失敗したが、以仁王の( ② )を受け取った源 頼朝や源 義仲らが挙兵した。清盛は体制を
整えるため6月に都を摂津の( ③ )へ移したが,貴族層の反発にあい半年ほどで平安京に戻した。
頼朝は石橋山の戦いで敗れたのち, 鎌倉に入って拠点とした。一方, 源義仲は1183年7月に京都を制
圧し,安徳天皇と平氏は西国へ都落ちした。
1185年,(O )の戦いで平氏が滅びたのち, 頼朝の勢力拡大を恐れた後白河法皇は義経に頼朝追討を
命じたが失敗し, 1189年に頼朝は義経をかくまった奥州藤原氏を攻め滅ぼした。翌1190年には上洛し
(6 )に,そして後白河法皇死後の1192年に征夷大将軍となり,名実ともに鎌倉幕府が成立した。
もちひとおう
きょへい
みなもとのよりとも みなもとのよしなか
せっ
かまくら
さいごく
ついとう
山
おうしゅう
じょうらく
せいい たいしょうぐん
う2のえたいしょう
の
の右五衛大将
6鎌倉幕府のしくみ】次の文章を読み, 下の問いに答えよ。
鎌倉幕府の中央組織には, 次のようなものがある。( ① )は1180年に設置され,御家人統制を担当し
た。長官は別当といい, 初代別当は( ② )である。一般政務や事務を担当したのは1184年に設置された
( )(初めは公文所)で,初代別当は(
された。長官は執事といい, 初代執事は( ⑥ )である。
地方組織としては, 諸国に守護を置いた。守護は国内の御家人を統率し、大犯三カ条とよばれる職務
を遂行した。荘園や公領には所領の管理や年貢の徴収·納入, そして治安維持を受け持つ地頭を配置した。
頼朝は御家人に対し。先祖伝来の所領支配を保障したり、新たに所領を与えたりして御恩を与え, 御家
人らは戦時には軍役, 平時には( ① )·鎌倉番役で奉公した。
問1 空欄( O )~( ① )に適する語句を答えよ。
問2 下線部(a)について, 大犯三カ条を全て答えよ。
問3 下線部(b)について, このことを何というか。
ごけにん
べっとう
もんじょ
)である。裁判事務を担当した( ⑤ )も1184年に設置
しつじ
しゅ
だいぼん
じとう
おん
ばんやく
ほうこう
まんどころ
問1 0護持統
侍所
③ 政所
問注所
の都大書性
5
6
問3
問2