日本史
高校生
解決済み

先生に、摂関は藤原氏しかなれないから、秀吉も藤原になったと言っていたのですが、なぜ&いつ藤原氏しかなれなくなったのですか?

回答

✨ ベストアンサー ✨

天皇と外戚関係をもった氏族はいくつかありましたが、平安時代に入ると、特に藤原北家が外戚関係を継続して持つことに成功し、皇位継承権を握り、天皇の後見・補佐する特殊な立場になりました。これが摂政・関白で、平安時代後期の藤原道長以降は、彼の子孫が摂関となることが常態化します。
平安時代末期〜鎌倉時代には、道長の子孫のうち、五摂家とよばれる家(近衛・九条・ニ条・鷹司・一条)からのみ、天皇との外戚関係の有無にかかわらず摂関に就任するようになります。以降、江戸の幕末期まで五摂家が摂関の地位を独占します。
つまり、長い歴史のなかで、結果的に藤原氏でないと摂関になれないという慣例が出来上がります。

秀吉の場合は、1585年に近衛前久の養子のような存在となり、関白となりました。また、翌年、豊臣に改姓し、豊臣秀吉として関白に残留しています。秀吉は豊臣氏を新たな摂関家としようとしたとも言われており、秀吉の養子である豊臣秀次も関白に任じられている。しかし秀次が死に追いやられ、豊臣家が滅んで以降は、再び五摂家が摂関の座を独占するようになりました。

ミライ

回答ありがとうございます。よくわかりました!

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