回答

蜂須賀阿波守至鎮という人物は、昔に戦場となった場所を巡って、今では廃れてしまったような物を探し集める(趣味の)人であった。(かつて起きた)屋島の戦いで(戦死した)源義経の部下の佐藤継信を葬ったとき、(義経は)最愛の大夫黒という馬を(佐藤継信への)褒美として(佐藤の葬儀を行った寺に)与えられたという。その(大夫黒の)鞍(馬に乗る時に使う専用の道具※画像参照)は今は志度寺にあったのだが、(蜂須賀は)その寺の壊れている部分を修繕して(寺の者に)鞍を譲ってくれと頼んだ。
それからしばらく経って、(蜂須賀の家の)倉庫の管理をしていた人は詳しい鞍の由来を知らずに、他の(普通の)鞍と一緒に置いておいた。
それからまたしばらく後の話、上田半平安重という乗馬の達人がいた。その頃、(蜂須賀の家では)他とは比べものにならないくらいの暴れ馬がいて人々が乗馬できず困っていたところ、上田が「この馬には良い鞍を置いて乗ってやれば良い」と言ったので、(倉庫の)多くの鞍を見てみると、上田がとても古い鞍を取り出してきて、「これが良い」といってその暴れ馬に(古い鞍を)置いた。上田をこころよく思わない者達が「どうして鞍に(馬が暴れる)理由がある(、いやそんなはずがない)。(どうせ失敗するだろうから上田が暴れ馬に乗る所を)見てやろう。」と言って集まってきた。そこに三浦次郎衛門という年老いた鉄砲の管理人も見物に来ていて、(三浦が)「珍しい判官(源義経)の(大夫黒の)鞍を見れた」と言ったので、(周りが)その由来を(三浦から)聞いて驚いた。このような暴れ馬であっても乗りこなしてみせたので、上田の乗馬の才能はますます有名になった。

※三浦は年老いていたので、蜂須賀の鞍を譲ってもらった話を知っていたのだと思われます。

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