[古文]玉勝間 兼好法師 詞のあげつらひ

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いお

いお

ピンク▷語句
黄色▷助詞
水色▷助動詞

ノートテキスト

ページ1:

勝
本居宣長
■兼好法師が詞のあげ
議論する
兼好法師が徒然草に、「花は盛りに、月は
語
3
そのみ見るものかば。」とか言へるば、いかないや。
遠い昔
断定
の歌どとい、花に盛りなる、月は隈なきを見るよりも、花の
である
もとには風をかこう、月の夜は雲を ひ、あるは待ち惜しむ
嘆く
し
完
しと詠めるぞ多くて、心深きたことじける歌に多
思いをすると
趣深い
特に
希望
のんびりと
かるは、みな、花は盛りとのどかに見子ほしく、月は隈なから
消
たい
んことを思う心のせちなるからこそ、さとえあらぬと嘆き
切実だ
花が風で目が隠れること
定
るなれいでこの歌にかけ、花い風と待ち、月に雪を
どこか
完了況
ひたるはあら
するとかの法師が言へるごとくなる
それなのにあの
ている
ようだ
断定
ている
人の心に逆ひなる、後の世のさかしら心の作り
口ぶっている
風流である

ページ2:

新定
完
まことのみやび心心はあらず。かの満師が言入る吉ども!
本当
定
この類の多し。みな同じことなり。
である
ここまでのまとめ
批判
兼好法師
花は盛りのとき、月は頃かないとき
だけを見るのではない。
本居宣長
それは後世の口ぶった偽りの風流だ。
昔は花が盛りになっているのでのんびり
と見ないと思い、月は瞬がないことと
思っている心が大切だから,花が散った
り目が隠れるのを嘆く歌が多い。
理由
理由②
どこの歌にも、花に風が吹くのを待ち
月が隠れるのを願う歌はない。
本当の風流心
作品について
兼好法師の言説は、人々の自然なバ情に反する
・江戸時代中期の炭然草についての随筆
作者は本居宣長
自分の見聞・感想などを
自由に書いた文章
徒然草・方丈記(鎌倉)や
枕草子(平安)など

ページ3:

すべて、なべての人の願ふ心いたがるとみやびとするば
普通
異なるている
作りことも多かりける。恋に、あへると喜ぶ歌い
とよ
・消
消
心深からで、あはぬと嘆く歌のみ多くして心深きも
婉曲
定
あひ見んことを願うからなり。人の心ば、うれしきことばけしも
喜ばしい
とある
深くはおぼえぬものにて、ただ、心にかなはぬことを深く身に
思われる ない どある
7-0
思いどうなるない
・しみてはおぼゆるわざなれば、すべて、うれしきを詠める歌には、
であるので
・心深きは少なくて、心にかなはぬ筋を悲しみへだるい
それほど
とよ
である
多さやかし。しかりとて、わびしく悲しきをみやび
つらい
定
焼
たりとて願はんは、人のまことの情ならめや。

ページ4:

ここまでのまと
偽り① 普通
風流だとすること。
喜ばしい歌
願う心と異なっていることを
つらく悲しいことを風流だと言っ
悲しみに歌
しみじみとした趣がある

ページ5:

消婉曲
また同じ法師の、「人は四十歳に足らで死なんこそ、
fed
ている
めやすかるけれ。」と言へろなどは、中ごろよりこなたの人
感じがよい
平時代後期)
定
の、みな、歌に詠み、常にも言ふいて、命長からんことを
願ふとぼ心行きこととし、早く死めるとめやすきこと。
言い、この世を厭ひ捨つるといさぎよきこととするば、これ
思い切りがよい
定 WW
みな、仏の道に入っらへるものいて、多くは偽りなり。言にこそ
追従するた
みる
さも言へ、心のうちには誰かはさは思はん。
とひ、それまれ
? 彼
ごくまれに
限定
まことにしか見る人のあらんぞ、もとよりの喜心ににあらず。仲の
敬へに惑入るなり
心が乱れるといるがある
断定
としたら
である

ページ6:

ここまでのまとめ
三人の人生観の違い
兼好法師
674
(:)
長生き
本居宣長
長生きしたい
反する仏教
のは、人間の本来の心情に
惑わされた結果だ

ページ7:

習
人の真心は、いかにわびしき身も、早く死ねばやとは
消
思はず、命惜しまぬ者はなし。されば、万葉などのころまでの
存
心は、ただ、長く生きたらんことをこそ願いだ。中ごろより
こなたの歌とは、
定
かり。 すべて何ごとも、なべての
世の人の真心に逆いて、異なるときことにするに、外国の
(中国・イド)
ためひの移れるいく、心を搾り飾れるものと知るべし。
しまったである
ねばならない

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