Japanese history
高中
已解決

幕府収入の1割に達するほどのばく大な収入があったにもかかわらず、わずか9年間で上米を廃止した理由はなんですか?💧
グラフ付きで教えていただきたいです🙇‍♂️

解答

✨ 最佳解答 ✨

幕府経済の改善のために必要なことは、大きく分けると2つです。
ひとつは、支出を減らすこと。
ひとつは、収入を増やすこと。

支出を減らす政策
「倹約令」
すべての藩に倹約を行うよう倹約令を出して、無駄な支出を抑えるよう命じた。
幕府も、大奥の人数を半分以下に減らすなど、支出の大幅な見直しをした。
✳︎将軍自ら粗末な衣服を着、食事は1日2回で一汁一菜を徹底する生活ぶりだったそうです。

...でも、これだけでは財政はどうにもなりませんよね?
そこで、収入をあげる政策です。

大きくわけて、3つです。
「上米の制」
大名から、1万石につき100石の米を幕府に献上させる。献上米を納めた藩は参勤交代での江戸滞在の期間が半年に短縮された。
✳︎お金がなかった幕府が、当面の収入を増やすための苦肉の策です。

「定免法(じょうめんほう)」
収穫量によって左右される「検見法」で徴収していた年貢高を、豊作・凶作に関わらず税率を一定にする「定免法」に切り替えた。
また、年貢の負担の割合も、四公六民(収穫高の4割が年貢、6割が農民の所得)から、五公五民(5割が年貢、5割が所得)とした。
✳︎これによって、幕府の収入は安定しました。反面、農民の負担は大きくなってますね。

「新田開発」
新しい田を開き、米の収穫量を増やした。
✳︎吉宗の時代は良かったが、収穫量が増えたことによって米の値段が下がっていくことになった。

幕府の財政を立て直せたのは、「上米の制」と「定免法」によるものだと言われています。
けれど、「上米の制」は幕府の権威を落とし、「定免法」は農民の負担が重く一揆が増えたので、後に続く寛政の改革・天保の改革では、これを採用できませんでした。寛永・天保の改革が失敗したのは、これが原因だと言われています。

ちなみに、享保の改革は、経済だけでなく、多岐に渡る改革を行っています。有名どころだけ挙げておきます。

①人事面
家柄にとらわれない人材の登用を行いました。
大岡忠相が有名ですね。「大岡越前」というドラマになってます。

「足高の制(たしだかのせい)」
当時の江戸幕府は、ある程度の身分と一定以上の石高が無ければ、高い役職に就くことは不可能でした。
そこで、低い身分でも能力がある者には米を支給して石高を上げ、役職に就いている間は相応の身分にさせました。

②刑事裁判の公平性と迅速化
「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」
これまでの判例をまとめた物。どんな罪が死罪になり、どんな罪が島流しになるなど、それぞれの罪に対する刑罰をあらかじめ定めた。
これが裁判の基準になりました。

③身分の低い人の意見を聞く
「目安箱」
農民や商人など身分の低い人の意見を幕府に届けるために設置されたもの。
実名で投稿することがルールでした。
町火消し組合の創設や、小石川養生所設置は、目安箱に入れられた意見がきっかけだったと言われています。

けんたろう

分かりました!
本当にありがとうございます🙇‍♂️

留言

解答

享保の改革の期間、年貢の収納高は、ずっと右肩あがりですよね?
順調に収入が増えたのが、上米を廃止できることになった根拠です。

また、上米の廃止は1730年ですが、その後も収入は上がっていますね?
つまり、大名から上米してもらわなくても成り立つくらい、他の政策が結果を出したということです。

もともと上米は、経済難を一時的に切り抜けるためのものなので、他の政策がうまくいけば、しなくていい政策なんです。
お金がないから大名から米をもらう、というのは、幕府からしたら恥ですからね。
それでもお願いしなくてはならないほど、幕府は経済難だった。
なので、財政難を脱すれば、幕府としても早くやめたい制度だったんです。

けんたろう

何度も質問に答えていただき、本当にありがとうございました。
参考にさせていただきます!

けんたろう

何度も何度も申し訳ありません。
他の政策とはどのようなものでしょうか。

留言

すみません。
一割増えた〜は書き間違いです💦

上米による収入が、幕府収入の一割に達した、が正しいです。

留言

江戸幕藩体制では、
・幕府は幕府領(天領)から年貢をとる
・大名家は自分の藩領から年貢をとる
...という制度でした。

つまり本来は、大名家から幕府へ、米などの年貢を納めるわけではありません。
幕府から大名に課された義務は、軍役や公共工事、そ幕府への忠誠などでした。

吉宗が将軍についたときは、幕府財政はかなり悪化していたため、大名家へ米の融通を頼むことになりました。
これが「上米の制」。
石高1万石につき、100石を納めさせる代わりに、参勤交代の期間を短くする制度です。

上げ米の制を実施することで幕府の収入は増え、収入は安定しました。

しかし、問題点もありました。
・幕府の財政は各藩からの上米頼りだということが露見した
・参勤交代の負担が軽減した大名たちが、経済力をつけた
この結果、幕府の権威が落ちてしまったんですね。

そこで、経済状況の改善という一定の効果はあったとして、9年間で廃止されることになりました。同時に、参勤交代の負担も元通りになっています。

グラフというのが、どのようなグラフを言っているのか分からないので、割愛させていただきます。

けんたろう

ありがとうございます!
廃止した理由として、幕府の財政がある程度回復したということは入らないですよね💧

けんたろう

あと、これは上げ米の制の時のグラフなのですが、このグラフからわかることってなにがあるか教えていただきませんか?🙇‍♂️

何度も申し訳ありません。

はる

廃止した理由は、幕府の財政がある程度回復した、で大丈夫です。
上米の制によって幕府の権威が下がった→財政が回復したので、さっさと廃止した、です。

グラフから分かること。

1枚目:享保の改革の結果、上米をなんとか廃止できるくらい、幕府の収入は増えた

上米の制は、1722〜1730年です。1枚目は、廃止した年の収支ですね。
円グラフを見ると、支出より収入が多いのがわかりますね。収入が増えたのが、吉宗の享保の改革の成果です。
上米の制によって収入が1割増えた〜と言われていますから、収入79万両の一割が7.9両。これが、上米の制による増収分です。
収入と支出の差が、約6.8両。
上米の制を廃止すると、1.1両の赤字になりますが、それでも廃止したのは、やはり幕府の権威が落ちたのが大きな理由かと思います。

2枚目
・天保の改革や寛政の改革に比べて、享保の改革は大きな成果をあげた
・享保の改革は、幕府の収入を増やし、財政を一時的に立て直すことに成功した

真ん中のグラフを見ると、享保の改革の間、年貢の収納高が、右肩上がりになっています。
享保の改革が、幕府の収入が上がったことがわかりますね。

享保の飢饉があっても、年貢の収納高は増えていますよね?
(飢饉というのは、災害や天候の影響で、農民が飢え苦しむことです)
これが、天候による米の取れ高の変動にかかわらず一定量の年貢を徴収する「定免法」の効果です。

しかし、それはつまり、農民の生活は苦しくなるということです。
米が取れなくても、年貢は決まった額を納めなくてはならないので。
享保の改革時、幕府の財政が安定化した一方で、農民による一揆や打ち壊しが多発しています。

一定の効果があったのに、その制度を続けられなかったのは、そういう問題点があったからでしょうね。

けんたろう

本当にありがとうございます🙇‍♂️
非常にわかりやすかったです。
参考にさせていただきます。

けんたろう

本当に何度も申し訳ありません。

「上米の制によって収入が1割増えた〜」とは、どこで言われているのでしょうか🙇‍♂️

何度も申し訳ありません。

けんたろう

あと2枚目の写真からは、上げ米の制廃止の理由は直接は読み取れないってことですよね😥

留言
您的問題解決了嗎?