鎌倉幕府の滅亡
(1)1
討幕の
背景
討幕の
計画
討幕へ
■統(後深草上皇系) と 2 □統 (亀山天皇系) の対立
てつりつ
→幕府介入による両統迭立→朝廷政治を左右
うちかんれい
たかすけ
(2)執権北条高時,內管領長崎高資による得宗専制に対し御家人の不満が高まる
(3) 畿内近国で悪党の活動が活発化
後醍醐天皇(大覚寺統), 天皇親政を実施
→討幕を計画→正中の変(1324) 3
くすのきまさしげ
もりよし
(1)楠木正成 (1331) ・ 護良親王 (1332) ら蜂起, 後醍醐天皇は隠岐を脱出 ( 1333 )
(2) 幕府軍の足利高氏(のち尊氏)が寝返り→4
] を攻撃 ( 1333)
(3) 5 ] は鎌倉を攻撃 (1333) 北条高時ら北条一門は自殺
北朝
↓
鎌倉幕府滅亡 (1333)
●建武の新政
新政 後醍醐天皇 年号を1
組織
2
[中央]
恩賞方 (恩賞事務) ・・・公家・武家が担当
雑訴決断所(訴訟関係の裁判)・・・ 幕府の引付を受け継ぐ
3
](警備)
なりよし
鎌倉将軍府 (成良親王を派遣,補佐: 足利直義)
天皇
南北朝の動乱
.
こうごん
] (1331) →失敗 (天皇, 隠岐へ配流→光厳天皇即位)
]と改元、幕府・院政や摂政・関白を否定→天皇親政をめざす
(重要政務)...天皇親裁
(1) 足利尊氏, 京都に1
(2) 2
のりよし
□ (義良親王を派遣, 補佐: 北畠顕家)
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[地方]
国司・守護(併置)
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りんじ
混乱と (1) 土地所有権の確認を天皇の綸旨で実施→武士社会の慣習を無視→武士の不満・抵抗を招く
対立
(2)足利尊氏,征夷大将軍を望むが認められず
(3) 5 ■ (1335) 北条時行 (高時の子) が鎌倉を攻略
↓
ひるがえ
足利尊氏は鎮圧を名目に関東へ下り,反旗を翻す
St
(持明院統)を擁立
] (政治方針17カ条) を発表→幕府は貞永式目を用いた。 その補足を3
Ar
6
1334年鴨川のほとりに
掲げられたといわれる
]とよ