Japanese history
高中
已解決

日本史の遣唐使の航路についてです。
遣唐使の航路が北路から南島路及び南路に変更されたのは、日本が新羅を従属国扱いをしようとして関係が悪化して通れなくなったからで合っていますか?

解答

✨ 最佳解答 ✨

良いと思います🙆‍♂️

補足として流れも押さえておきますね。

660年に百済が、663年に日本の百済救助隊が、668年に高句麗が、唐・新羅連合軍によって滅ぼされます。唐・新羅は強いですね。

ただ、唐と新羅は仲が良かったわけではありません。お互いがお互いの力を利用して、領土拡大を企んでいました。そのため、高句麗を倒したときに、唐と新羅は対立します。「高句麗の跡地はどっちのものか争い」です。

新羅が考える最悪のパターンは唐が日本と結んで、挟み撃ちをしてくることです。よって、新羅は日本に対してペコペコします。

しかし、唐と新羅の対立はそこまでバチバチにならず、上手く和解が成立して、両者は仲良くなります。その後、新羅は唐から文化を学び、冊封体制下に入ります。そこで、新羅は大国として認められました。

とはいえ、日本はペコペコしていた時の新羅を知っているので、新羅が唐に認められようと強気の姿勢を崩しません。つまり、従属国のような扱いをしようとしていました。そこから新羅と日本の関係は悪化してしまいます。

このような流れがあります🙏
余計なところまですみません🙏

いのり

背景までご丁寧にありがとうございます!
テストが近かったのでとても助かりました。

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