World history
มัธยมปลาย
問1~10までの解答お願いします!
問1 : 私は、7 世紀頃のアラビア半島のメッカの商人であったが、神 (アッラー) から
の言葉を人々に伝える預言者となり、その教えをもとに新しい宗教であるイスラム教を
創始した。私が伝えた神の言葉は経典 『コーラン』 としてまとめられ、西アジアを中心
に広がり、8 世紀にアッパース朝が誕生して、首都バグダードを中心に大いに繁栄した。
( )
問2 : 私は、 13 世紀に世界中を支配したモンゴル帝国の第 5 代のハーンである。 私の祖
父チンギスニハーンは、 モンゴル高原を統一して中央アジア・中国を支配して帝国の基
礎を作り、その後も子孫たちが世界各地への遠征を重ね、領士を拡大した。しかし、私
が即位する頃から各地の一族が分立し始めて、私は中国とモンゴルを支配して王朝名を
元と改めた。私もアジア各地への遠征を続けて、ベトナム・東南アジア、そして嫌食間
府の時代であった日本へも二度境征した。 日本ではこれを元窓といっている。
( )
韻3 : 私は、イタリアのヴェネツィアの商人の出身である。父 (または叔父) に連れら
れ、 当時ユーラシア大陸を支配していたモンゴル帝国の領土を通って、元の都に到着し、
その後 2 0 年以上にわたって元の各地を見開したのちイタリアに戻り 、『世界の記述』
(『東方見開録)) という本にまとめた。この中で日本のことを『金の国ジパング』
と大げさな表現をした。 ( )
問4 : 18 世紀末のフランスでは、厳しい身分制度に対して人々の不満が高まり、1789.
年のパスティーユ年獄の襲撃をきっかけとして、人々が立ち上がった。その後、個人の
自由や平等、 財産権などを定めた『人権宣言』
た。 しかしその後もさまざまな
ナポレオンの登場とともに
問6 :20 世紀に入ると、 工業化が進んだ西欧の国々は植民地などの支配をめぐって、ドイ
ツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・ロシア・フランスの三国協商に分
かれて対立が深まった。 1914 年、 バルカン半島でオーストリア笑位継承者夫妻が暗殺され
るとついに、世界中を巻き込むこの大戦争が始まった。 日本も、日細戦争前に結んだ日英
同骨を理由に参戦した。しかし、この戦いは長期間続いたため、各国では食料の配給制、
女性や青少年まで軍需工場で竹かせるなど総力戦の体制をとった。この戦争とは何か。
( )
問7 : 私は 20 世紀の 国の革命運動家である。第一次世界大戦にロンアは参戦し
たものの、 極度の食糧不足・物資不足に人々は苦しんだ。 1917 年、 首都のベトログラード
(虹在のサンク トペテルブルク)でのデモをきっかけに戦争継続に反対する動きが広がり、
皇帝は退位して新政府が樹立された。しかし、この新政准も戦争を継続したため、ついに
私が指導する兵士・労働者によるソビエト政権が実権を操った。 1922 年、ソビエト下権は
ソンピエト社会主義共和国連邦 (ソ連) となった。 % はま
問8 : 私は、第一次世界大戦中のアメリカの大続名である。アメリカは当初戦争では中
立の立場であわったが、ドイツの潮水骨による攻撃によりアメリカ国民にも失牧者がでると、
国内で戦の気連が高まり、協商側でを戦した。 その後私は、 軍備縮小、 民疾自決の原則、
国際機関の設立などによる戦後の世界を提品し、この原則に基づいてパリ講和会議が
開催された。 しかし 民族自決の原則は革外国の要求でバジア・アフリカには適用されず、
またドイツとのベルサイコ条和約はドイツに革しで、 不当な台償を要求まるものとなった。
しかし、 国際平和機関については、ジュネーヴに本部をおく 国際連器として設立された。
問9 : 私は、インド独立の父と明おKK
いう原則が示されたものの、 >
りあがった。日本に支配されCM
の中国では五・四運動などが
と、私が提唱した非暴力
問10 : 私ま 1959 年 期
務めた。私が大骨
いたので、公共事業と
復をめざした。しかし、
に対してとったブロシ
ったドイツ・イクリ
制をとり、対 了
に 1989 年、ドイ
当初中立の立場を
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