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まず、指摘しなくてもいいことかもしれませんが、オーストラリアではなくオーストリアですね。
オスマン帝国がなぜ衰退した理由は、端的に言えばヨーロッパにおいてはイタリア戦争を契機として軍事革命が広がり、17世紀後半の時点で既に相当の軍備の近代化が進んでいた一方で、オスマン帝国は旧態依然としたイェニチェリ軍団が主力であり、ヨーロッパに対する軍事的な優位が失われていたためです。
その結果、1699年カルロヴィッツ条約でハンガリーを失うのですが、広大なオスマン帝国にとってはせいぜい辺境の一地方を失った程度の認識で、彼らにはいまいち危機感がなく、18世紀の前半にはフランスから輸入された華やかな宮廷文化が栄えましたが(チューリップ時代)、軍事技術や社会制度の近代化は遅々として進みませんでした。
その間にオーストリアがルーマニアやセルビアまで攻め込んできてさらに領土が縮小し、同時に南下を開始したロシアとの戦争にも敗れ、1774年のキュチュク=カイナルジ条約でクリミア半島を失い、一方で18世紀後半にはアラビア半島でもワッハーブ王国が反乱を起こすなど国内のアラブ人の民族主義も盛り上がり、オスマン帝国の衰退が隠せなくなっていきます。
流石に危機感を感じたスルタンのセリム3世は、イェニチェリを廃止して近代的な洋式軍隊を創設しようと試みましたが、既得権益を奪われることを恐れたイェニチェリが抵抗してセリム3世は暗殺され、改革は頓挫してしまいました。
その後、1826年にマフムト2世がイェニチェリを全廃し、洋式軍隊を創設することに成功しますが、遅きに失しました。既にギリシア独立戦争が始まり、1830年のロンドン会議でギリシアの独立を認めさせられ、その後オスマン帝国は東方問題に巻き込まれていきます。
詳しく説明して下さりありがとうございました!
参考にさせていただきます。