✨ คำตอบที่ดีที่สุด ✨
随筆は全部が全部作者の感情が綴っているわけではないです。
当たり前っちゃ当たり前ですが、基本的に文章は
「Aということに対して、私はBだと思う」
という構造になるはずです。
(AとBが因果関係など、特別な関係になる場合を除きます)
Aには具体例や事柄が入り、Bには作者の主張や思いが入ります。AにもBにも作者の主張が入ることはたぶんあり得ないです。
例:布団で眠ることは、気持ちがいいことだ。
→作者の主張は、「気持ちがいいことだ」の部分です。
「布団で眠ること」が作者の主張にはなり得ません。ここは具体例や事柄に該当します。
随筆は、この作者の主張の書き方に特徴があります。
評論文のように論理立てて説明するのでなく、小説のようにフィクションでもないですが、
単に自分が良いと思った具体例や事柄を並べて、「これって良いよね(あるいはダメだよね)」といった感想を述べたものです。
ただ、これは主張の書き方に特徴があるだけですので、随筆=全部が全部作者の主張や思いの文になるわけではありません。そもそもそんな文章は存在しないと思います。
なぜ「それでも〜の連続する三文を作者の思いと解釈」されたのかの理由が書かれていないので、質問者さんがどういった考えなのかがわかりかねているという前提で話を進めます。
一応解説加えますと、やはり「それでも〜」からの三文が具体的な描写に該当するかと思います(とはいえ、1文目はグレーの気もしますが)。
この作者からしたら、線香花火は楽しいものだと思っているのですよね。そのため、描写方法に若干のバイアスは見られるものの、線香花火の様子を描写した文章には違いないかと思います。
例えばトマトについて語る時、トマトを好きな人と嫌いな人では話し方に違いが出ると思います。
好きな人→「噛むとじゅわっと口の中に広がるうまみと水分がおいしい。」
嫌いな人→「噛んだ時、なんだかぐじゅぐじゅとしたものが出てくるでしょう。あれが嫌いなの」
この場合、
「トマトは、噛むと中から液体が出てくる」
という事象に変わりはないのはわかるでしょうか。
この事象に対して、
トマトが好きな人は「おいしい」という感想になり、
トマトが嫌いな人は「気持ち悪い」という感想になります。
そのため、上の文を具体的描写と思いに分けるとすれば、以下のようになります。
好きな人
→「噛むとじゅわっと口の中に広がるうまみと水分」(具体的描写)
「がおいしい。」(思い、感想)
嫌いな人
→「噛んだ時、なんだかぐじゅぐじゅとしたものが出てくるでしょう。」(具体的描写)
「あれが嫌いなの」(思い、感想)
好きや嫌いという感情が挟まっているために、同じ事象でも描写の仕方が異なっていますが、本質的な「トマトを食べると中から液体が出てくる」といった事象は変わっていません。
本文では、線香花火の様子が描写されています。
解答の三文の箇所で、線香花火に火をつけ、パチパチと光った後、しばらく経つとその光がポツっと落ちてしまうまでの様子が、
線香花火好きの作者の“色眼鏡”を通して描写されていると解釈できるかと思います。
その線香花火の具体的な描写のあとに、「花火の原点なのではないかと思う」といった作者の感想が綴られていると、私は読みました。
随筆ですので、無味乾燥な描写ではなく、色眼鏡を通した描写になるのは致し方ないことだと思います。
書いていて思ったのですが、もしかしてこの辺りで混乱されているのでしょうか?
はいそうです。
作者の色眼鏡を通しているため、作者の思いではないのかなと混乱していました。
確かに、言っていることは本質的に同じですね。
すいかさんの回答と、問題、解説を読み直したら、理解できました。ありがとうございました。
回答ありがとうございます。
確かに、文章構造はそうなっていると思います。理解しました。
では、その文章構造に則って考えたとき、
線香花火がつくという事柄に対して、それでも~の連続する三文が作者の思いとなっている。と私は解釈したので、問5の答えはないと思うのですが 、すいかさんは、どうお考えですか?