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日本史 高校生

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の法の醍皇 三皇 2- 官 要 白 t 本 滋 床 L. た ●国風文化 次の文の空欄にあてはまる語句を答えよ。 遣唐使の廃止後,これまでの大陸文化と貴族文化が融合して, 日本の風土に合った国風文化 が誕生した。 国風文化の象徴であるかな文字は、 万葉がなの草書体を簡略化した ( 11 )ゃ, 20 きんちょう 漢字の一部分である ( 12 ) が日常生活で使用されて, 多くの文学作品が生まれた。 和歌は, 最初の勅撰和歌集である 「古今和歌集」 が編纂され, 古今調の歌風は後世の和歌の模範となった。 この歌集の歌人である紀貫之は,最初のかな日記である ( 13 ) を記し, また藤原道綱の きのつらゆき みちつな たかすえむすめ じんてきかいそうろく しょう し 母が自らの家庭生活を記した( 14 ) や,菅原孝標の女が自伝的回想録を記した( 15 ) のように、女性によるかな日記も誕生した。 かな物語では、最古の物語文学である(16)や、 短編の歌物語集である「伊勢物語」があった。また、中宮彰子に仕えた紫式部の(17) ( 18 ) が皇后定子に仕えた宮廷生活での体験を随筆風に描いた『枕草子」は,国文 学の最高傑作とされている。 藤原道長の栄華を描いた「栄華物語」の歴史物語もあった。この ように、かな文学は教養豊かな女官(女房)によって隆盛した一方で,貴族は公の場では漢字 を使用したが、藤原道長の日記 ( 19 ) のように,その文章は和風的な漢文であった。 かじきとう げんぜりゃ この時期の仏教は,加持祈疇により現世利益を追求する貴族と天台・真言宗が強く結びつい ほん じ すいじゃくせつ ごりょうえ 61% ていた一方、神仏習合の考えである本地垂迹説の思想も盛んとなり、御霊会も盛んに催さ くうや れた。これと同様に浄土教も流行し、10世紀半ばに空也が京の市で説いたのちに(20) おうじょうようしゅう ねんぶつ が 「往生要集」で念仏往生を説くことで貴族・民衆の間に流行した。さらに、末法思想によっ まっぽう しそう て浄土信仰はいっそう広まり、来世で救われたいと考える人々が増加した。ほかにも、経典 きょうづつ きょうづか を写経して経筒に入れて地中に埋める経塚も営まれた。 また, B しんでんづくり 美術工芸の作品も国風化の影響を受けており,寝殿造とい すまびょう う日本風の建築様式が使用された貴族の住宅内部は、襖や屏 まきえ らでん 風に d 大和絵が描かれた。 また, 蒔絵や螺鈿の手法を使用し さんせぎ た調度品も屋内に飾られ, 書道では三蹟と呼ばれる和様の名手の作品も重宝した。 藤原道長の ゅんじゅう らいこう ず が臨終の人を極楽浄土へ迎えに来る場面を描いた。 来迎図も多く描かれた。 ほうじょうじ びょうどういんほうおうどう どう 法成寺や図 B の平等院鳳凰堂は,浄土教が影響した阿弥陀堂の遺構である。 また、阿弥陀仏 げんぶく 貴族は10~15歳で男性は元服し、女性は裳着の式をあ しゅっし そくたい 上げて成人し、男性は官職を得て朝廷に出仕して、年中行事 などに奉仕した。 その際, 貴族男性は図Cの束帯や簡素化 した 女性は図Dの安房装業(十二単を正装とした。 一 小 一人 ・唐衣 19 一表者 藤原冬嗣を筆頭に北家が勢力をのばし、(1) 基経は,他氏排斥により摂政・関白の 地位を高めた。その後醍醐・村上天皇による親政が行われたが, 安和の変後に藤原忠平 が摂関政治を行い、藤原道長 頼通父子の時に最盛期を迎えた。外交では,唐滅亡後に建 国した宋や、中国東北部の ( 9 ) 朝鮮半島の (10)と国交を結ぶことはなかった。 Check Point - → がくるという説。 彼らの多くは左京に住んで常に在京し、食事は1日に2回 を限度として, その日の行動を吉凶によって決定するといった日常生活をおくったのである。 本地垂迹説 仏 (=本地)が人々を救 済するため, 神という仮 の姿となってこの世に現 れたとする思想。 御霊会 なぐさ 政治的に非業の死を遂げ た人の霊を慰める行事が. のちに疫病の流行を防ぐ 目的に変化した祭礼。 浄土教 阿弥陀仏を信仰し、来世 において極楽浄土に往生 し、そこで悟りを得て苦 をなくす教え。 末法思想 しゃか 釈迦の死後に、正法・像 法の時代を経て末法の世 ぽっぽう 貴族の住宅用建築様式で、 寝殿を中心に東対・北対・ 東北対が透渡殿・渡殿で 接続された。 わたどの 蒔絵 漆で描いた模様に、 金粉・ 銀粉を蒔きつける技法。 しんじゅこう 貝殻の真珠光を加工して 漆器に埋め込む技法。 おののみちかぜ THRE 小野道風・藤原佐理・藤 原行成の3人の名手。 なり 「藤原頼通が木造 宇治に建 立内部に じょうちょう。 仏師定朝 せり みだにょらいそう が寄木造で つくった阿弥陀如来像が 安置された。 宮中で毎年特定の時期に 行う神事・仏事 政務の 行事のこと。 問1 奈良・平安 問2 問3 問1 下線部aについて, この出来事を何というか。 問4 よししげのやすた 問2 下線部について、この両天皇の親政はのちに何と呼ばれてたたえられたか。 問3 下線部の人々のうち、往生をとげた人物の伝記を集めた, 慶滋保胤の著書は何か。問5 問4 下線部dについて、大和絵の名手であった平安時代前期の宮廷画家は誰か。 問6 問5 下線部eについて。 高野山が所蔵する阿弥陀如来と諸尊32体の来迎図を何というか。 問6 下線部fのうち吉凶により引きこもったり、凶の方角を避ける行為はそれぞれ何か。 ポテンシャル日本史 23

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日本史 高校生

答えが分からないので教えてください

9 10 8 11 12 14 15 16 13 17 18 6 7 5 |本朝 (皇朝) 十二銭の一つ。 7世紀の富本銭に続いて、 1708年武蔵国より銅が献 上されたことで鋳造した。」 都からの使者や官人が. 使用する馬などを配備し た宿泊・休憩施設。 3 [条坊制」 東西南北を基盤目状に |区分した制度。 平城宮 1 2 うまかい 武智麻呂・房・孕谷・ まろ 麻呂の4兄弟。 藤原氏の 系譜である南家・北家・ 式家・京家の祖となった。 裏や、政務・儀礼を行っ だいごくでん ちょうどうい た大極殿 朝堂院, 官庁 が置かれた場所のこと。 4 14 だい 天皇の生活の場である内 V 原始・古代 平城京と政権の動揺 次の文の空欄にあてはまる語句を答えよ。 618 年, 唐は中国を統一して, アジアに大帝国を建設した。 A やくしん 国際都市として躍進した唐の都 ( 1 ) に, 日本は遣唐使 を派遣して多くの留学生や学問僧が渡航し、唐の先進的な (1) 710年, 藤原京から平城京に遷都して奈良時代を迎えた。 じょう 図Bの平城京図をみると、唐の都 ( 1 ) を参考にした条 政治制度・文化を日本にもたらした。 しかし、唐への渡航は そうなん 遭難が多く, 地図Aのような安全な北路で渡航したが,新羅 との関係悪化のために, 8世紀には危険な南路をとらざるを ひんぱん 得なかった。一方で,中国東北部の ( 2 ) とは使節の往来を頻繁に行い, 国交を結んだ。 B 平城宮 ぼうせい 坊制をもつ都市で、 中央を南北に走る ( 3 )を軸に東の 左京 西の右京にわけられ, 北部中央に平城宮が配置されて いたとわかる。 大安寺・薬師寺などの寺院も建立され,左京・ いちのつかさ 右京には市司が管理した官営の市が設置され、産物の売買が 唐 三条大路 四条大路 五条大路 六条大 一条北大路 西大寺・ 一条南大路 二条大路 七条大路 八条大路 九条大 さくぼう し、不比等の子である藤原四子の策謀で、当時左大臣であった 元正 4 ( 8 )を自殺に追い込み, 光明子を皇后に立てて政権を担 たちばなのもろえ 当した。 藤原四子の病死後, 皇族出身の 橘諸兄が( 9 ) きびのまきび んぼう の下で政権を担当し,唐から帰国した吉備真備と玄肪を起用し た。この起用に反発した ( 10 ) が九州で反乱をおこした が鎮圧され、この社会不安に (9) は恭仁京→ 難波宮→ なにわのみや しがらきのみや ちんごこっかしそう 紫香楽宮と遷都を繰り返し, 仏教の鎮護国家思想による国家 (13) (9) 北路 (12) 夫右 MILLI 京町 こくぶんじ こんりゅう ぞうりゅう 安定を図ろうと、国分寺建立の詔と 大仏造立の詔を出した。光 5" わどうかいちん(ほう) 行われた。物品の売買は, b 京畿内では和同開珎 の銭貨 が使用されたが,それ以外の地域ではなかなか流通しなかっ た。また,平城宮跡で発見された( 4 )により,身分による居住区分や宮廷生活の内容が 解明されている。 地方では、中央から派遣された国司が ( 5 )を拠点として地方政治を行い, かんどう えきろ 七道に沿って整備された官道(駅路)により中央と結ばれた。 そして, この官道には約16km 22 藤原 四兄弟 橘諸兄 坊坊坊坊 大大大 08 南路 230675 711 うまや ぐんけ ぐん ごとに駅家を設ける駅制を敷いた。さらに、地方豪族から任命された郡司が統治した郡家(郡 でんろ。 衙)が置かれ,伝路により国庁と結んで地方を統治し, 律令国家の形成を実現したのである。 また、支配が及んでいなかった東北地方の ( 6 ) の制圧にも乗り出し, 7世紀半ばに 旦 本海側に拠点を設けたのちに, 8世紀には太平洋側にも城柵や (5)を置いて軍事的な制 じょうさく はやと さつま おおすみ 圧を進めた。九州では、 南九州の隼人を制圧し、薩摩国・大隅国を設置して統治を進めていった。 (2) 1 西市 ふじわらのふひと 8世紀初頭、藤原未等は大宝律令や ( 7 )の編纂の中心となって律令制度を確立し, 藤原 仲麻呂 年 天皇家と密接に結びついて藤原氏の政界進出を築いた。 不比等天皇政権 の死後は、右の年表のように皇族と藤原氏が交互に政権を担当 元明 不比等 710 平塚京港郡 文武 701 大宝律令の完成 藤原 708 和同開珎の鋳造 することになり、皇族の(8) が右大臣に就任した。 しか 718 (7) の完成 大字 卍興福寺 元興寺 P2 大五六七 坊坊坊 大大 佐 20 CE 東市 坊坊坊坊 (8) 723 三世身法 AUSS 729 (8) の変 政治の内容 722 百万町歩開墾計画 | 光明子が皇后となる 740 九州で (10) の乱が発生 741 国分寺建立の詔 743 (15) の発布 大仏造立の詔 752 大仏開眼供養 757 (7)を施行 (11) の変 758 恵美押勝の名を賜る 764 恵美押勝の乱 766 道鏡が法王となる 769 宇佐八幡神託事件 藤原 770 道を左遷 百川ら かいげんくよう 平城京再遷都後は奈良で大仏造立を続け, 孝謙天皇時に大仏開眼供養を盛大に行った。藤原仲 こうみょうこうたいごう だて 麻呂が光明皇太后の後ろ盾で権力を握ると、橘諸兄の子 ( 11 ) が政変をおこすが失敗し, えみのおしかつ たまわ のちに即位した( 12 )から恵美押勝の名を賜って、権力を独占した。 しかし ( 12 )

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日本史 高校生

問1の答えあっていると思いますか?答えがないので教えて頂きたいです。

第7問 災害史 日本列島は自然豊かであると同時に、自然災害ともつねに背中合わせの歴史を歩んできた。 災害に関する下の問い (問1~4)に答えよ。 問1次のグラフと表は、古代の飢饉の原因について、『続日本紀」などを基にデータをまと めたものである。 これらを見て、 下の問い (1) (2) に答えよ。 グラフ 表 8% 256%- 679年 ~791年 1000年 - 1099 F 1150年 ~1200年 158 1200年 ~1299年 日本紀』に記載された干ばつ、風雨 地震災害 煌害の件数と比率 全国計 近畿 東海 山陽・四国 東北 (出羽・ 陸奥) 関東 173 45% 31.3% 133 50 52 RE SORELL - THIE 降雨 寒冷 高温 59 67 24.7% 4.2% 28.0% 52 35 21.1% 42 3.9% 16.3% 85 10.8% 14 10 13.5% 24 21 [] 干ばつ | 風雨地震・災害蝗害 14.5% 87 31% 見益吉郎(1979) 日本紀に見ると京都大学学会誌による。 10 154 56% 121 乾燥 104 43.1% 55 33.1% 51.8% 377 47.7% 15.3% 198 41 73 1280年 1350年 60.7% 4.3% 12.6% 22.4% 72 4 13%- 28.0% 207 26.2% 計 239 166 257 790 5 16% 326 6 19% 16 52% (1) グラフと表から読み取れることを説明した文XYについて,その正誤の組合せとし て正しいものを、 下の①~④のうちから一つ選べ。 X 飢饉の原因について地域による差異はなく、どの地域でも干ばつが最も多い理由であ った。 Y 飢饉の原因は気候変動に左右されるため、年代によっては大きく異なる。 4 X-E Y-E @ X-IE Y一誤 ③ X 一誤 Y-E X誤 Y一誤 (2) 次の文章はある地域の風土記のものである。 この風土記が記された地域を下のX・Y から、その理由として最も適当なものを下の①~④のうちから一つ選べ。 「霖雨に遭はば、即ち苗子の登らざる歎を聞き, 亢陽に遭はば,唯 穀実の豊稔なる よんこな 歓をみむ」 3 地域 X 出雲 理由 常陸 長く雨が降ることを喜んでいるため、干ばつの飢饉が多い東日本の風土記であると判 断できるから。 長く雨が降ることを喜んでいるため、長雨による飢饉が多い西日本の風土記であると 判断できるから。 日照りが続くことを喜んでいるため、長雨による飢饉が多い東日本の風土記であると 判断できるから。 日照りが続くことを喜んでいるため、干ばつの飢饉が多い西日本の風土記であると判 断できるから。 問2 次の資料は18世紀に起きた江戸時代で最大の飢饉の様子を記録したものである。これ を読み. 下の問い(1) (2)に答えよ 資料 出羽陸奥の両国は、 常は豊穣の国迫しが、 此年はそれに引かへて取わけての不熟 にて、南部津軽に至りては余所よりは甚しく (中略)元より貧しき者共は生産の 手だてなく. 父子兄弟を見棄ては我一にと他領に出さまよひ嘆き食を乞ふ されど. 行く先へも同飢饉の折からなれば、他の人には目もかけず. 一飯あたふる人も なく日々に千人. 二千人流民共は餓死せし由 又出行事の叶ずして残り留る者 は食ふべき物の限り食ひたれど、後々には尽果て先に死たる屍を切取喰ひしま (後略)。 ( 『後見草』) (1) 資料に描かれている地域を地図のアイから選び、資料から読み取れる内容をウエ から選んだ場合、その組合せとして最も適当なものを、下の1~4のうちから一つ選べ。 A 地図 内容 ウ地域のなかには豊かな収穫があった地域も存在したため、 他領からきた困窮化した人 びとに食事を恵むことがあったことがわかる。 エ貧しくても他領に移動できない人びとのなかには屍さえも食すほど飢餓に苦しむ人び ともいたことがわかる。 59

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