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古文 高校生

( )のところがわからないので教えてください

(返す) 2 ほうそれて待っていたのかと思う )』 いらふ Date ) J€ と考えて とて、 『ただ一度にいらへむも、待ちけるかともぞ思ふ』 『いまひとこゑ呼ばれていらへむ』と念じて )』と て、 念ず ているうちに 寝たるほどに、 謙譲 (僧たちは)「おい、お起こし申しあげる ノラスト出 幼い人は寝入ってしまわれた。」( な~そ ②「や、起こし奉りそをさなき人は、寝入りたまひにけり。」 禁 と(僧たちの)言う声がしたので、 つらい と言ふ声のしければ、 2 『あな、わびし』と (児)『あ』と 思って『 )』と思いながら寝て聞いていると、 思ひて、『いま一度、起こせかし』と、思ひ寝に聞けば、 2 ⑩ (児は) むしゃむしゃと、ただひたすらに(ぼた餅を食べる音がしたので、 ひしひしと、ただ食ひに食ふ音のしければ、 かて、長い時間がたったあとに、 ずらなくて、無期ののちに、 「はい」 「えい。」 と返事をしたので、 15僧たちは笑うことはなはだしい。 ずちなし B といらへたりければ、19僧たち 笑ふこと 限りなし。 A児の心の中の言葉が全部で七箇所ある。訳文の( B口で囲った語は重要古語である。古語辞典で調べて意味を書け。 ⑤ 「寝たる由」を訳し、その理由を二十字程度で述べよ。 C⑩「えい」とはどの言葉に対する返事か、文の番号を指摘せよ。 D 1僧たちが笑った直接の理由を答えよ。 )部分に現代文を書け。

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国語 中学生

国語の中3の世界はうつくしいとの表現技法って反復法以外にありますか?あと、作者の工夫などありますか?

世 うつくしいものの話をしよう。 いつからだろう。ふと気がつくと、 うつくしいということばを、ためらわず 口にすることを、誰もしなくなった。 そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。 うつくしいものをうつくしいと言おう 。 けいこく 風の匂いはうつくしいと。渓谷の 石を伝わってゆく流れはうつくしいと。 午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。 遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。 きらめく川辺の光はうつくしいと。 おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。 行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。 花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。 雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。 太い枝を空いっぱいにひろげる おおいちょう 晩秋の古寺の大銀杏はうつくしいと。 冬がくるまえの、曇り日の、 南天の小さない実はうつくしいと。 コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。 過ぎてゆく季節はうつくしいと。 さらりと老いてゆく人の姿はうつくしいと。 一体、ニュースとよばれる日々の破片が、 わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。 あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。 うつくしいものをうつくしいと言おう。 幼い猫とあそぶ一刻はうつくしいと。 シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。 何ひとつ永遠なんてなく、いつか すべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。 作者 長田弘一九三九 (昭和一四) ―二〇一五 福島県出身。詩人。 著書 詩集「深呼吸の必要」 「心の中にもっている問題 出典 「世界はうつる

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日本史 高校生

徳川家の出来事A〜Fまでを年代の古い順に並ばなければいけないのですが、BFDAECの順であっていますか?教えて頂きたいです🙇🏻‍♀️

3 以下の問に答えよ。 A: 徳川家宣は、 朱子学者の(Ⅰ)と側用人の間部詮房を信任して、 政治の刷新をはかろうとした。 しかし、 徳川家宣は在職わずか3年余りで死去し、 そのあとを継いだ徳川家は満3歳であったため、 引き続き ( I )らが幕府政治を担うことになった。(I)は①長崎貿易で、 多くの金銀が流 出していたことを問題視し、これを防ぐために② 貿易額を制限した。 B:③関ヶ原の戦いで勝利したⅡは、1603年、④全大名に対する指揮権の正統性を得るための 征夷大将軍の宣下を受け、江戸幕府を開いた。1605年、将軍が世襲であることを諸大名に示すため、 子の(Ⅲ)に宣下を受けさせた。その後(Ⅱ)は駿府に移ったが、大御所として実権を握り続 け、大坂の陣で豊臣氏を攻め滅ぼし、その直後、大名の居城を1つに限り、⑤武家諸法度を制定して大 名をきびしく統制した。(Ⅲ)は、⑥天皇や公家が守るべき朝廷の運営などの基準を定め、娘を御 水尾天皇に入内させた。 C : 徳川宗家 (本家) がとだえると、 ⑦ 御三家の紀伊藩主であった(Ⅳ)が将軍になった。 ( N )は、29年間の在職のあいだ、諸政策を実行して②幕政の改革に取り組んだ。18世紀後半 は⑨幕藩体制にとって大きな曲がり角となった。 ⑩ 三都や城下町の町人地中心部に住む都市民衆は、零 細な棟割な側に住み、わずかな ① 貨幣収入で暮らしを支え、物価の上昇や飢饉、災害のときには、たち まち生活を破壊させた。 D : 幼少の徳川家綱を会津藩主で叔父の(V)が支えたことで、 社会秩序が安定しつつあった。 平和 が続く中で、 重要な政治課題となったのは、戦乱を待望する 12牢人や 「かぶき者」 への対策であった。 17 世紀後半には、政治の安定と経済の発展とを背景に(VI)が将軍となった。 ( V )の政治 は(VI)が(a)として支えた。 (VI)は代がわりの武家諸法度を出し、 13 幕府の統治理念 に変化があった。 また (VI)は、 1生類すべての殺生を禁じ、 捨子の保護なども命じた。 E 15 田沼意次が退いたあと、 徳川家斉の補佐として (b)に就任したのが、 白河藩主(VII)で ある。 国内外の危機がせまるのを感じて、飢饉で危機におちいった農村を復興することによって、幕府 の財政基盤を復旧し、 ⑩6 打ちこわしを受けた江戸の治安問題を解決し、 17 ロシアを中心とする 18 海外勢 力に対応するための 19 諸政策を実行していった。 IX SUPRA CRE F:徳川家は、 1635年、新たな武家諸法度を発布し、諸大名に法度の遵守を厳命した。 その中で、 大名には20国元と江戸とを1年交替で往復する制度を義務づけ、大名の妻子には江戸に住むことを強 制した。こうして()の頃までには、2幕府の職制についても整備された。 1637年、2島原 の乱後、幕府は、キリスト教に対してきびしい監視を続けていった。 問1 A~Fの文中(I) ~ (V)に入る人物名をそれぞれ漢字で答えよ。 IX 知・技 9

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