もぎ けんいちろう
茂木健一郎「どうすれば「ひらめく」のが」
京都の銀盟寺から南に下る「哲学の道」は、哲学者·西田幾
多郎が散歩をしながら思索にふけったことで有名である。
私も、京都に行くたびに、「哲学の道」を散歩する。ムズカシ
イことをいろいろ考えようとするのだけれども、何もひらめか
ない。やはり、私は西田に比べてアタマが悪いんだな、と思っ
ていた。
、私だって、ふだんから全くひらめきがないわけでは
ない。歩いているときにひらめくことがヒカクテキ多いような
気がする。それも、特別な道ではなく、毎日通っている家から
駅までの道を歩いているときに、ひらめきが訪れるようである
なぜだろう、と考えているうちに、なるほど、と思った。
私が「哲学の道」を歩くと、周囲の景観についつい注意を奪わ
れてしまう。脳が、今まさに見えている光景をニンシキするの
に精いっぱいになって、その他のことをする暇がなくなってし
まうのである。それに対して、毎日歩いている道ならば、もは
や目新しいものもないから、思索に集中することができるとい
うわけだ
こそ、さまざまな思索にふけることができたのではないか。京一
都のあの「B一明婦な道だけが、哲学の道なのではない。毎
日の生活の中で歩いているありふれた道こそが、私たち一人一
人にとっての“哲学の道,なのである。
西田幾多郎は、毎日のように「哲学の道」を歩いていたから
都のあの一
(脳の中の人生
あさのあつこ「空と