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1864年(元治1年)8月5日から7日にかけて、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4国の連合艦隊によって長州藩の馬関(現在の下関市)と彦島の砲台を砲撃し、4国の軍隊がこれらを占拠・破壊した事件のこと
1853年(嘉永6)にペリーが浦賀へ来航し、幕府は日米修好通商条約を締結。
→これにより、江戸幕府に不満を持つ攘夷派(外国人を国内に入れないという考えをもつ)は、朝廷にいる攘夷派の公卿らと結びつくようになった。
→朝廷は家茂に攘夷の実行を指示。攘夷運動の中心だった長州藩は、日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要所、馬関(下関)海峡に砲台を整備した。
長州藩は攘夷期日がくると早速、アメリカ商船に向けて攻撃を実施。商船は逃走。
つづいて、フランスの船が海峡に入ったところを砲撃。そして、オランダ船にも攻撃。
→長州藩の攻撃を受けて、アメリカは幕府に抗議します。聞き入れられず、アメリカは報復攻撃を決定。
→6月1日、アメリカによる報復攻撃によって、長州藩は壊滅状態に陥り、下関の砲台も甚大な被害を受けた。
→6月5日にはフランスの砲撃攻撃が開始。海・陸での戦いにも敗れ、長州藩は欧米の軍事力の強さを思い知ることになった。
→日本人に攘夷の不可能、開国の必要性を思い知らせようとイギリスの駐日公使オールコックは長州藩への懲罰攻撃を決意する。この方針に、長州藩による攻撃を受けたアメリカ、フランス、オランダが参加を同意。
→1864年(元治元)4月、四国連合による武力公使が決定しました。1864年(元治元)8月5日、四国連合艦隊は長州藩の砲台に猛攻撃を開始します。
→長州藩は大敗した
とても詳しくありがとうございます!