歴史
中学生
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社会の歴史で、寛政の改革の特徴と、田沼の政治の特徴を教えてください!

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寛政の改革→1787年~1793年に松平定信(まつだいら さだのぶ)によって行われた改革。
享保の改革を理想としたもので、非常に堅苦しいものであった。
まずは1788年。農民が江戸に出稼ぎに行くのを制限したり、1790年には都市に出ていって定職についていない農民に農機具代まで援助し農村に返させます(帰農令・きのうれい)。また、同年には囲米(かこいまい)の制度を開始。大名達に米は使い切らずに備蓄しておくように命令を出します。
当時は、田沼意次時代の重商主義政策(商業を重んじる考え)の結果、農村から都市へと大量に人が流出してしまったり、天明の大飢饉(1782年~1788年)によって農村は荒れ始めていました。その農村を正常に戻し、収穫を上げると共に、再び起こるかもしれない飢饉に備えた訳です。

 次に、棄捐令(きえんれい)といって借金に苦しむ旗本などの為、1784年以前の借金は帳消し、1785年以降の借金は利子を下げるように命じました。

 また、寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)といい朱子学以外の学問を禁止します。朱子学は身分の高い人へは絶対服従を唱えていたので幕府にとって都合がよかったようです。
寛政の改革は失敗に終わりました。

*田沼の政治

江戸時代、幕府の収入や幕府から各藩への給料はすべて”米”でした。

幕府の財政悪化に伴い、田沼意次以前にも享保の改革と寛政の改革という2つの改革が行われました。これらはともに農業改革で米の収穫高を増やして幕府の収入を増やし、それによって幕府と藩の財政再建を図ろうとするものでした。しかしこの改革によって米の収穫高は確かに増加しましたが、市場に流通する米の量も増えたことで米の価格が下落し、幕府の税収も藩への給料も大きく目減りするという逆の結果を招き、結局どちらも失敗に終わりました。

そこで田沼意次は農業ではなく商工業を振興し、鉄や銅を幕府専売にしたり商工業者のいわゆる”株仲間”を積極的に公認してそこから税金を取ったり、海産物の中国への輸出を増やして外貨を稼ぐなど、市場価格に左右される米ではなく、現金による収入を増やすことで幕府の財政を立て直そうとしました。

しかし当時の武士の間には朱子学に基づく”貴穀賤金(穀物は貴くお金は賤しいもの)”という考えが根付いていたため、お金に目を向けた田沼意次は失脚し、彼の行った政策はすべて取り消されました。だからこの時代のことを当時の人は「田沼時代」とか「田沼政治」とは呼ぶけれど、決して「田沼の改革」とか「○○(年号)の改革」とは呼ばなかったのです。それが現代の教科書にもそのまま書かれているのです。

そして幕府はもう一度、農業改革を行いました(天保の改革)。しかしこれも失敗でした。

やがて江戸幕府は田沼意次と同じ手法で財政再建を達成し、蓄えたお金で外国から最新の兵器を購入した薩摩・長州両藩によって滅ぼされます。幕府が何度も行った農業改革と田沼の改革、果たしてどちらが真の改革だったのでしょうか?

RIANA

ありがとうございます!

ゲスト

いいえー(o^^o)長々とした文ですみません。

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