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✨ ベストアンサー ✨

延久年間に出された荘園整理令より遡ること二つ前に、寛徳の荘園整理令というものがありまして(覚える必要なし)、この延久の荘園整理令は簡単に言うと、寛徳の荘園整理令以降に出来た荘園は一律不許可にするという内容でした。すると今まで国司の介入を防ぐため藤原摂関家に土地を寄進していた連中が挙って天皇家に寄進し始めるようになるのです。
要は摂関家への寄進だと規制されるが、天皇家、つまり規制を行う側・体制側へ寄進してしまえば、当然利益となる荘園は規制されないので、今まで通り不輸・不入の権を保持する事ができるのです。

そして後三条天皇の後は白河院、つまり院政が開始されます。そしてその後の院は荘園整理を定期的に行い、自分たちに荘園寄進を集中させることになります。

要はマッチポンプです。
天皇家が積極的に荘園整理令を出す→摂関家が領家や本家だと荘園が処分される!まずい!!→多くの荘園が寄進先を天皇家に変える

そしてこの流れには続きがあり、
荘園寄進が天皇家に集中→南都北嶺を中心とする大寺社勢力が僧兵を使い強訴→僧兵の脅威から守るため武士の(主に桓武平氏)積極起用→平氏の台頭

まぁ歴史とは当然因果関係から成り立っているわけですが、こうしてみるとよく出来ているなぁと思わされます笑

さきち

ありがとうございます😊

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回答

山川出版社の『詳説日本史』p.77には、「荘園整理によって、貴族や寺社が支配する荘園と、公領との区別が明確になり、貴族や寺社は認められた荘園の整備を進め」とあります。延久の荘園整理令は違法な荘園を停止したことは確かですが、残った荘園は国家が認めた荘園として存続します。また、このような国家権力に対抗するためには、それに対抗できる権威を持った天皇家や摂関家、大寺社などを荘園領主にする必要があると考えられるようになりました。
その後、荘園が拡大するのは、教科書p.79にあるように鳥羽院政期です。この頃になると、荘園を停止して公領として税を徴収するのも、自らの荘園として年貢を徴収するのも、収入源としては結果同じということで、荘園整理をするより、荘園を集める方向へと転換していくのです。
ですから、参考書に書いている、延久の荘園整理令によって荘園が拡大したというのは間違いというか、ちょっと古い説明です。

喜重郎

説明が古いと書いてしまいましたが、ちょっと言い過ぎですね。「これ以降」とあるので、延久の荘園整理令以降は、次第に荘園整理をせず、鳥羽院政期になると、荘園を集積するようになったという意味ではないかと思います。

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延久の荘園整理令のときは正式な認可があるかなどの基準を決めて、基準外を違法な荘園として整理しました。
このあとは基準に合った合法な荘園ができていきました。

院政期になって、最高権力者の治天の君が自分の荘園を合法的に認めさせるようになり、荘園は激増しました。

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