歴史
中学生

幕府はなぜ滅んだのでしょうか?
土佐藩のすすめで政権を朝廷に返し、滅んだのはわかるのですが、なぜ土佐藩がそのようにすすめたのかわかりません。教えてくださいm( _ _)m

幕府

回答

中学生ではサラッと触れて終わりですが、ここでは天保の改革などについて詳しく話しましょう。
天保の改革はご存じ浜松藩主であった老中水野忠邦が主導して行われた江戸時代の三大改革の一つです。そこでは様々な改革が行われようとするのですが、その中で『上知令』についてご紹介します。
上知令は簡単にいうと、江戸と大阪の周辺地域を幕府の直轄地にしようという計画の元に、江戸・大阪周辺に土地を持っていた大名や旗本に、幕府の土地と大名、旗本達の持つ江戸・大阪周辺にある土地を交換しろという命令です。ただ幕府が交換に出す土地は、交換する江戸・大阪周辺の土地から取れる年貢収入より低い土地限定!という超ケチ臭い命令を出すわけです。
当然これは猛反発を受けて、結果的に上知令はおろか天保の改革自体もこの大批判により水野忠邦の罷免(罷免とはクビのこと)によって失敗に終わってしまうわけなんですが、ここで多くの大名などは気づくわけです。
三代将軍の徳川家光の時代には幕府に逆らうとすぐに土地を没収されたり、辺鄙な土地に移らされたり、土地を減らされたりなんて当たり前でした。幕府は強かったんです。でも気づけば大名や旗本、民衆の反対があれば幕府の命令でも取り消すことができる状態です。幕府権力の失墜を人々が認識するのが天保の改革です。これが前提①

そして同時期にはとある考えが全国的にヒットします。所謂後期水戸学と呼ばれる考えです。水戸藩の藩校(水戸藩の公式学校だと思ってください)である弘道館にて後期水戸学が説かれるわけです。後期水戸学ってなんぞやって話ですが、簡単に言えば尊王攘夷思想です。もっと噛み砕くと、尊王は天皇最高、攘夷は外国は消えろ、です。これが前提②

そんな幕府権力は弱体化、人々の思想は幕府の存在意義について疑問を抱く中で、ペリーがやって来ます。そして日米和親条約締結後、アメリカ総領事のハリスと日米修好通商条約を結ぶことになりますが、主導した大老井伊直弼は、天皇の許可なしに条約の調印をします。そしてこれは②の思想に反しています。天皇を蔑ろにして、外国に媚を売りやがったということです。なのでブチ切れた水戸藩士は井伊直弼を桜田門外の変でぶち56します。
そんな中で長州だ薩摩だという藩はそれぞれ攘夷を目指して対外戦争を挑みますがボコボコにされます。
そしてそれぞれ攘夷は無理だから尊王を目指そうと考えを変えます。つまり天皇isトップの国を作ることを目指すわけです。その中で土佐藩は徳川将軍もその天皇をトップとする政治体制の中の重役の1人として残すということにすれば、幕府の反対を受けずに、無駄な血を流さずに、天皇中心の国を作れると考えて大政奉還を進めたとされています。結果として将軍はいらないという連中が王政復古の大号令を出し、それに反対した幕府との戦いに、新政府軍が勝利し、江戸幕府は名実共に滅ぶことになります。

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