日本史
高校生
解決済み

日本史の荘園制度についてです。
名田の徴税をしたのは田堵か国司のどちらですか?

回答

✨ ベストアンサー ✨

この質問をしてる時点で負名体制を全く理解していないと思います。
まず三善清行の意見封事十二ヶ条が出される10世紀には律令制的土地制度の崩壊が述べられています。
意見封事十二ヶ条の中で例として邇摩郷が挙げられています。
斉明天皇の時代即ち660年に白村江の戦いがあったので、天皇は筑紫朝倉宮に下ることになるのですが、備中国を通過する際に非常に栄えていて、その後邇摩郷と呼ばれるところを通りかかり、凄い栄えているので試しに兵士を取ってみると、健康な男子2万人を徴兵できたことから二万の郷と名付けた。そしてその徴兵した兵士は1人も戦争に連れて行くことはなく邇摩郷に残したので、その後ももっと栄えてもっと人が増えるはずだと思っていたのですが、
称徳天皇の時代即ち760年代になって邇摩郷の健康な男子の数を調べてみると1900人しかいない、
そして清和天皇の時代になって税負担する健康な男子がどれくらいか調べてみると70人しかいない。
そして三善清行が備中守だった宇多天皇の時代に自身で調べてみると税負担する健康な男子は9人しかいない。
そして意見封事十二ヶ条を提出した相手である醍醐天皇の時代に備中の国司の交代があったので、その人に今邇摩郷に税負担する男子はどれだけいるかと聞いてみたところ、1人もある事なし、0人だと答えたというものです。
つまり660年〜914年の約250年間で地方政治が凄まじい勢いで荒廃していることが分かるという史料なのですが、別に本当に男子が0人になったわけではなく、地方の状況が浮浪、逃亡、擬籍なんかが流行って人民の把握が出来ていないってことです。つまり醍醐天皇時代は公地公民制の立て直しに意欲を持ったけれども、公地公民制の立て直しは不可能だとこの段階でわかるので負名体制へと移行して行くことになるわけです。これが前提

そして人民から税を巻き上げることが無理になったので、土地に課税する方式に変更をします。各地にいる有力農民に国司が広い土地を貸し出して大規模な耕作を請け負わせます。この耕作を請け負った者を田堵と言い、田堵が請け負った土地に名前を付けたので名と言い、その名から税を取ったのが国司です。そして地方政治を中央が投げ出したので、地方政治を自由にできるようになった国司は徴税請負人化していくことになり、中央では成功や重任による売官、売位が流行ることになります。

やいは

詳しい解説ありがとうございます
共通テストの駿台の青パックに、「田地は名に分けられ、田堵が徴税を請け負うようになった」という文の正誤問題がありました。徴税するのは国司だと思い、バツにしたのですがマルが正解になっていて、ネットで調べてもわからなかったので質問しました。捉え方によっては田堵が徴税したとも見れるのでしょうか?

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