現代文
高校生

現代文の質問です。

問1のXで解説読んだら納得はしたのですが、解答の黄色で囲った部分の4行目に書いてある「同調」の捉え方が筆者独特のもの(?)だというのに気づけません。
何をポイントにして気づくものなのですか?

宜しくお願いします🙇‍♀️

T 【共通】 次の文章はコロナ禍以前に書かれたものである。これを読んで、後の問に答えよ。(配点 五十点) ○生まれ変わったら一度は相撲取りになってみたいし、人生で初めて文学賞に応募した作品も相撲小説だった私が今気に なっているのは、相撲の本場所での応援が、コンサートのアンコールみたいに変化してきたことである。 「豪、栄、道!」 とか「稀勢、の、里!」といったリズムで力士の名を呼びながら手拍子を打つのだ。相撲の応援といえば、ひいきの力士 の名を館内によく響かせる声で叫ぶのが名物だった。声援は、集団ではなく個人単位だった。 ひそ 私みたいな以前からの相撲ファンはたいてい眉を顰めているが、時代とともに応援のスタイルなどその競技の文化が変 化するのはありうることだろう。 変化には理由がある。私はそこが気になる。 ④毎場所、毎日、テレビの放映で手拍子を聞いているうち、私は何かに感触が似ているなと思った。やがて、はたと気づ いた。サッカーの日本代表の試合後などに、渋谷のスクランブル交差点で見られるハイタッチである。私はあれを見るた びに、公共空間でも弾けてよいというお祭り騒ぎを、日本の人たちはすさまじく渇望しているんだなと感じる。そして、 寂しいんだなとも。 ひとことで言えば、一体感に飢えているのだろう。一体感に飢えているのは、日常が孤独だからだろう。つまり居場所 がないのだ。あるいは、 属する場はあっても、そこに過不足なく自分が収まっていると思えないのだ。浮いている、外 れている、はみ出している、蚊帳の外、いてもいなくても同じ、存在感がない、微妙に無視されている、つきあいは表面 的で理解し合っているとは言いがたい。 そんな疎外感を常日頃からどこかに抱えている。 だから非日常の場で、日常とはまったく違う人とのつながりを求 たくなる。力関係や利害関係から解放された、無礼 きせ
講的な水平のつながりを。その機会の一つがスクランブル交差点でのハイタッチであり、大相撲観戦での手拍子であり、 ハロウィンなのかもしれない。 (注1) ⑦ それだけではない。安保法案反対のデモが盛り上がったのにも、その側面があると思う。昨今の政治の言説はしばしば、 マイノリティを傷つける暴力性を帯びており、そのたびに傷つき、孤独感を募らせる人は多いだろう。私自身もそうだ。 それがデモに行けば、そのような言葉に抗議しようという人たちばかりだから、傷つかないという安心感があるし、孤 独も癒される。 という、共同性の感覚をもたらしてくれる。 けれど、暴力を振るう側のデモや集会にも、おそらく同じ要素がある。多くの人は最初は、孤独を癒す居場所を求めて、 「まり承認欲求を満たしてくれる場として、ヘイトをする集まりに加わるのではないか。 (注2) そうして共同性を感じられる非日常の場に何度も参加するうち、それは非日常から次第に日常へと変わっていく。 デモ も、そこでこそ「本当の自分」を感じられるという居場所に変わっていく。 そこに所属しているという意識から、そこを自分が所有しているという意識に変わったとき、共同性は排他性 へと変質する。つながりを持てることが喜びだったのに、どこまでが仲間かという線引きが始まるのである。 ②そのときに、共同体の物語は、排除の言葉として機能し出す。 共同性が生み出す物語は当初は、言語化できない経験を言葉にしたものとしてスタートする。 語るのがつらい苦しみや 大災害や過ちの引き起こした事件などの記憶を、分かち合う言葉として、絞り出される。そこには、負の感情を共有 絞り出される。 することで中和する役割がある。 けれど、それが繰り返し語られ、半ば自動化された物語となるに従い、その物語を共有しない者へ、排除の牙を向け始 める。 2
その生 に入れるのに最も適当なものを、次の各群のア~オの中からそれぞれ一つずつ選び、 ア表面的なつきあいでもかまわないのだ 世間からはみ出すことに意味があったのだ ウ>まわりに同調しなくても理解し合えるのだ エ行動することで何かを変えられるのだ オどんなことをしても許してもらえるのだ ア地獄絵のような妄想 イ影絵のようなほの暗さ ウだまし絵のような悪意 エ隠し絵のような不可解さ オ 踏み絵のような線引き せ 二傍線部1 「『豪、栄、道!』とか『稀勢の里!』といったリズムで力士の名を呼びながら手拍子を打つ」とある が、このように「手拍子を打つ」ことを筆者はどのように考えているか。 八十字以内(句読点等を含む)で説明せよ。 三傍線部 2 「文学とは、永続する共同性ではなく、一瞬の共同性だけを生きる言語なのだ」とはどういうことか。百 問一空欄 記号で答えよ。 X
つなからない イの「世間からはみ出すこと」は、これだけでは「共同性の感覚」につ ながらない。一人で「世間からはみ出す」行為をすることもあり得る。も ちろん何人かでそうした行為をすることもあり得る。そのとき「共同性の 「感覚」が生まれることもあるだろうが、必ずそうなるわけではない。よっ て正解ではない。 ウは〈相互理解〉にふれている。ただ「まわりに同調しなくても」とい う部分が本文に書いていないと思った人もいるかもしれない。だが先に引 用した部分の「つきあいは表面的で」という表現は、それほど深いつきあ いはないということであり、とりあえず相手に「そうだね」と「同調」 しておく〉という意味を含むと想定できる。だが、デモに行けばそんな 「つきあい」をしなくても、相互に「理解し合える」「共同性」を手に入 れられる、というのがウの内容なのだと考えられる。したがって、 ウが正 解である。 エもイと同様、このことだけでは「共同性の感覚」の説明にならない。 デモに行くという「行動」によって、「何かを変えられるのだ」と確認す ることは、「共同性の感覚」自体ではないし、〈相互理解〉を説明している ともいえない。よって正解ではない。 オもイ・エと同様、このことだけでは「共同性の感覚」の説明にならな 0 > 表面的なつき合い H 1 96
評論文 人類学

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