世界史
高校生

七月革命
二月革命
三月革命
六月蜂起

これらを物語のように繋げて簡単に説明していただけませんか?🙇🏻‍♀️💦

回答

ナポレオン戦争後のウィーン会議において、フランスではフランス革命以前のブルボン家による王政が復活することになりました。
この復古王政について、タレーラン外相はこう評しています。
「何事も忘れず、何事も学ばず」
革命前の贅沢三昧は忘れておらず、しかしフランス革命からは何も学ばなかったという意味です。
処刑されたルイ16世の弟であるルイ18世が新たなフランス王として即位します。彼はルイ16世のように議会の邪魔をすることはなく、立憲君主政が保たれましたが、革命で亡命した貴族を呼び戻して特権を復活します。次の弟のシャルル10世は、議会選挙で反王政派が勝利すると、勅令で議会を解散させて絶対王政への復古を画策し、国民の不満をそらすためにアルジェリア出兵を強行します。
このシャルル10世の暴政に対して、ブルボン家打倒を目指して始まったのが七月革命(1830年)です。シャルル10世はイギリスへ亡命することになりました。
七月革命後、フランスは七月王政という体制へ移行します。自由主義の貴族であったオルレアン公ルイ=フィリップを国王に迎え、議会を開いて立憲君主政をすることにしました。この七月王政では、選挙権は限られた金持ちに与えられ、銀行家などのいわゆる商業資本家(大ブルジョワ)が体制を支えていました。
しかし、この七月王政期にフランスではイギリスに遅れて産業革命が進み、新たに産業資本家と労働者階級が台頭してきます。選挙権のない彼らはルイ=フィリップを「株屋の王」と罵り、普通選挙を政府に要求します。
しかし、首相ギゾーは「選挙権が欲しければ金持ちになれ」と言って相手にせず、反政府運動の集会を規制するようになりました。革命派は「改革宴会」と称したパーティーの体で反政府運動を続けますが、これも禁止されたことで遂に不満が爆発します。こうして起こったのが二月革命(1948)です。
ルイ=フィリップはイギリスへ亡命し、七月王政は倒れ、第二共和政が成立します。二月革命のニュースは当時の最新技術であった電信によってリアルタイムでヨーロッパ中に知れ渡り、ドイツの三月革命ではフランクフルト国民議会が開催され、ドイツ統一への機運が高まります。オーストリアの三月革命ではメッテルニヒが失脚してイギリスへ亡命し、チェコやハンガリーでも反オーストリアの独立運動が盛り上がります。イタリアではマッツィーニがローマ共和国を樹立してイタリア統一を目指すようになりましたし、イギリスでは普通選挙を求めるチャーティスト運動が最高潮に達しました。このように、フランスの二月革命がヨーロッパ各地へ波及していったことを諸国民の春(1948)と呼びます。
しかし、当のフランスの第二共和政はあまりうまくいきませんでした。というのも、二月革命の原動力となった産業資本家と労働者階級がすぐに仲間割れを始めたためです。
第二共和政の臨時政府における労働者階級代表の社会主義者ルイ=ブランは、国立作業場の設置を提案しました。これは、革命でボロボロになったパリの町のインフラを整備し、また失業者を救済するために公共事業を行う役所です。これ、構想はよかったんですが、最終的にインフラ整備が終わってしまったのにも関わらず、労働者に対して賃金を支払い続けるだけになってしまいました。こんな政策が支持されるわけがありません。
結局、選挙をやってみたら労働者階級・社会主義派は惨敗し、産業資本家・穏健共和派が勝利することになり、間もなく国立作業場は閉鎖されることになりました。これに対して国立作業場で雇われていた労働者たちが反対して起こしたのが六月暴動(1848)ですが、結局は軍が出動して鎮圧されました。

このような歴史を経験してきたフランスの人々は何を思うでしょうか。
「また王政が戻ったら嫌だから王党派は嫌だ。だけど金持ち政治も嫌だから穏健共和派・ブルジョワもだめ。でも社会主義者・労働者は大失敗した。誰を支持したらいいんだろう?」
こういう鬱屈した状況で、彗星の如く現れたのが皇帝ナポレオン1世の甥を名乗るルイ=ナポレオン、後の皇帝ナポレオン3世でした。

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