歴史
中学生
解決済み

写真の下線部が分からなかったので説明お願い致します🙇‍♀️
また、なぜ幕府は徳政令を出して御家人を救おうと思ったのですか💭

ぼうへき 2 本に攻めてきました。 しかし、 幕府が海岸に築いた石の防壁や、 こけにん かつやく 御家人の活躍で、元軍は上陸できず, 暴風雨にあって大損害を受け, ごうあん えき 6 げんこう 引きあげました (弘安の役)。 この二度の襲来 (元寇) の後も、元は えんせい 日本への遠征を計画しましたが, 実際には行われませんでした。 このように戦いはありましたが、 元と日本との民間の貿易は行 ぜんしゅう そう われており, 禅宗の僧も日本と元との間を行き来しました。 ➡p.75 E かまくら めつぼう 鎌倉幕府の滅亡 日 ぶん 幕府の支配を支えていた御家人は、領地の分 とく 放す者もいました。 幕府は, 御家人が手放した土地を返させる徳 un 7 10 政令を出して救おうとしました。 しかし、モンゴルの襲来に備え かつ 割相続によって生活が苦しくなり、 土地を手 るために北条氏の一族に権力を集中させると、 幕府への反感が強 まりました。 かまくら 一方、鎌倉時代後期に全国で交通が活発になると、物資が集ま きん る港を支配して豊かになる武士が現れました。 経済が発展した近 20 畿地方を中心に, 荘園領主や幕府に従わず、年貢をうばう武士も しょうえん p.277 ねんぐ 現れ、 悪党と呼ばれました。 ごだいごてんのう ちょうてい こうした中、後醍醐天皇は政治の実権を朝廷に取りもどすため、 幕府をたおそうとしました。 天皇は, 一度は隠岐 (島根県) に流さ しまね くすのきしげ れましたが, 楠木正成などの新しく成長した武士や, 有力御家人 あしかがたかうじ の足利尊氏などを味方に付け, 1333年に幕府をほろぼしました。 モンゴルの襲来後、御家人の生活が
御家人 徳政令 鎌倉幕府

回答

✨ ベストアンサー ✨

このときの鎌倉幕府は執権政治で北条氏が政治を支配していました(ここまでは分かるはず…)

北条氏のなかにも、いろいろな種族があって、
普段は、北条氏同士で時間をかけて話し合っていろいろ政治を決めてたのですが、

元が攻めてくるとなると緊急時で時間がなかったので、一時的に北条氏のなかでも特に力があった
『 得宗家』というところが政治をするようになりました

しかし、元から国を守れたあとに御家人が幕府に褒美を求めたのですが、褒美をあげれなかったので、御家人たちの反感を買いました

幕府はこれに対応するために、
『 徳政令』(御家人たちの借金を0にする)
を出したのですが、御家人にお金を貸していた人たちが、
「お金を貸したら、損するからもうお金を貸さない!」
となって結果、御家人たちがどんどん貧しくなったので
反感を買って、鎌倉幕府滅亡の始まりとなりました

rikk

褒美(御恩)を与えられなかったのは、
元に勝てても土地を得られなかったため、あげる土地がなかったのが原因です
(このころは、褒美=土地だから)

れもん

よく分かりました!!ありがとうございます✨

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