平氏が源頼朝によって滅ぼされ、鎌倉幕府が誕生しました。
《いい国つろう鎌倉幕府》ではなく
《いい箱(1185年)》です。
ちなみに
1185年は、国ごとに守護、地頭を設置した年で、
1192年は頼朝が征夷大将軍になった年です。
鎌倉の仕組みは
一番偉いのが《征夷大将軍の源頼朝》
二番目に偉い《執権(北条義時)》
鎌倉幕府に仕える《御家人(武士)》
《御恩と奉公(鎌倉幕府の為に働くと土地がもらえる)》
ちなみに
『一生懸命』の語源は、御恩と奉公からきています。すなわち、一所懸命(一つの土地を懸命に守る)からきています。
義経を捕まえるためにできたのが《守護》
いくつかの問題ができました。
問題点1
「次の偉い人は誰ですか?」
頼朝が、亡くなったあとは権力争いが起こりました。
将軍の職は頼朝の子供が継ぐのですが、単に子供だったから継いだだけで、力があったわけではありませんでした。
そこで、頼朝の妻の北条政子の親族「北条一族」が、《執権》という役職につくことになりました。と言うことは
《妻の親族に幕府を乗っ取られる》
問題点2
《荘園》問題
「土地は誰のもの?」
頼朝は守護、地頭を置きましたが、
もともとは後白河法皇に「弟を見つける為」と許可をもらって置かせてもらったものなので、
土地が頼朝のものになった訳では無い
しかも、貴族も朝廷もなくなった訳では無いので年貢や土地の取り合いになりました。
ちなみに
平安京は京都、鎌倉幕府は鎌倉にあるので、関西の方は貴族が強く、関東の方は幕府が強かった。
そして、朝廷に権力を取り戻そうとして、後鳥羽上皇が起こしたのが
1221年の《承久の乱》
この戦で、後鳥羽上皇は自分から喧嘩を売ったのに負けてしまいます。
そして、勝った方の幕府の力がより強くなりました。
後鳥羽上皇のように幕府に刃向かう人物が現れないよう幕府は京都に《六波羅探題》を設置しました。
これで、幕府も安泰だと思われたのですが、そうではなく
モンゴルの帝国「元」が、海を渡って攻めてきたのです。《元寇》
元寇には1274年の《文永の役》と1281年の《弘安の役》があります。
弘安の役では、元と日本では戦力が違いました。
元は「てつはう」という、火薬を使った武器を持っていました。
続きます。
質問者さんではないですが、めっちゃ分かりやすいです。ありがとうございます^o^