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簡単に言えば将軍継嗣問題で揉めて隠居させられたって感じです。
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第13代将軍・徳川家定の継嗣問題において、老中首座であった堀田正睦を中心に、一橋徳川家当主の慶喜を将軍に、春嶽を大老とする運動が行われ、春嶽は腹心の橋本左内を京都に派遣してこの動きを後押しした(「一橋派」)。しかし幕閣では紀州徳川家の徳川慶福(のちの家茂)を推す「南紀派」で彦根藩主の井伊直弼が大奥の支持を得て大老となり、将軍世子は慶福に決定する。権力を掌握した井伊ら南紀派は一橋派を弾圧した。幕府が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印すると慶永は徳川斉昭・慶篤親子と尾張藩主徳川慶恕らとともに登城をして抗議したが、安政5年(1858年)7月5日、不時登城の罪を問われて強制的に隠居させられ、謹慎の処罰を受けた。これ以降、慶永は春嶽の号を多用するようになる。また、井伊直弼が主導する安政の大獄により左内は投獄・処刑された。
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