回答

八月のこと、上杉謙信は8000の軍勢を率いて信濃に向かった。(謙信は)「私の今回の行軍で、必ず武田信玄と直接戦って、雌雄を決する」と述べ、犀川を渡って布陣した。16日に信玄は20000を率いて出陣し上杉軍に対し(て布陣し)た。(武田軍は)塁(簡素な土の砦)を固めて打ってでなかった。18日に謙信は配下の村上義清などの兵を夜のうちに(茂みなどに)隠れさせ、夜明けに采樵者を甲斐(武田軍側)の塁に近付かせた(敵地の薪を勝手に切り出すという挑発を行った)。甲斐の兵士は采樵者を追いかけ、(村上義清たちの)伏兵にあって(奇襲され、追いかけた者は)全員が死んだ。(武田軍の)全部隊は出撃して(上杉軍と)激しく戦った。一日中17回戦って、勝ちも負けもあった(勝負は決まらなかった)。
信玄は密かに命令して、犀川に大綱を張って渡河した(上杉軍の背後を突こうとした)。(敵に見つからないよう)旗を伏せて蘆葦の中を進み、(敵の背後に出てくると)すぐさま謙信の麾下を襲った。麾下の部隊は潰走し(戦えなくなっ)た。信玄は勝ちに乗じて更に進む。(上杉軍の)宇佐美定行たちは軍勢を横にして(信玄の部隊を迎撃して)、信玄を犀川に押し戻した。信玄は数十騎と共に敗走した。(上杉軍から)一騎、黄色の陣羽織を着て栗毛の馬に乗り、顔を白い布で隠して、太刀を手に持った者が出てきて、「信玄はどこにいる」と叫んだ。信玄は犀川を渡って今にも逃げようとするところである。騎馬武者も川を渡りながら「青二才(の信玄)はどこにいる」と罵り、太刀を振り上げて信玄に斬りかかった。信玄は刀を抜く余裕もない。(信玄は)手に持った軍扇で刀を防いだ。扇は折れた。(騎馬武者は)再び斬りつけ、信玄の肩を斬った。甲斐の兵士は信玄を守ろうと思うが、川の流れが速く近付けなかった。(武田軍の)原大隅は槍で騎馬武者の馬を突いた。(しかし)当たらない。(原大隅は再び)槍を上に掲げて騎馬武者を突いた。馬首に当たった。馬は驚いて、急流の中に入った(なので騎馬武者も信玄を追い掛けられなくなった)。信玄は何とか死地を脱した。(武田軍の)武田信繁は信玄が窮地だと聞いて引き返し、騎馬武者を探して戦い、敗れて討死した。
この日、両軍は多くの死者を出した。信玄は傷を受け、夜のうちに兵士の武装を解いて退却した。後に越後の(上杉軍の)捕虜を得た。(その捕虜は武田軍に)「あの騎馬武者は謙信だ」と言った。

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