どっからどこまでですか?後三条天皇の即位から理解できないのか、延久の荘園整理令から理解できないのか明確にお願いします
1068年に後三条天皇が即位すると摂関政治の全盛期は終焉を迎えます、当時の関白は藤原頼通の弟で教通と言う人物でしたが、彼は後三条の外戚ではないので権力は握れません。藤原氏の影響力を排除した後三条は政治改革を進めます。そこで最も大きな出来事は延久の荘園整理令ですが、これは二つ前に出した荘園整理令以後の荘園は認めないとする内容で、全国各地の荘園をぶっ潰します。これは摂関家荘園も例外ではなく、かなりの数が削減されたとされます。
そしてこれはマッチポンプのようになります。積極的に荘園整理をやってみせると荘官たちは国司の干渉を避けるために天皇家への荘園寄進を進め、天皇家はウハウハです。この荘園整理を行う機関が記録所です。
とここまでつらつら書きましたが、荘園寄進や負名体制ってそもそも理解されてますかね?
こんなにありがとうございます!理解してません。
醍醐天皇時代に三善清行という人物が『意見封事十二箇条』と呼ばれる文書を提出します。その中では律令制的土地制度の崩壊が述べられており、醍醐天皇の次、朱雀天皇の時代に制度を変えます。それが負名体制です。それまで口分田だった土地をある程度まとめて名と呼ばれる土地単位に再編成し、現地にいる有力農民である田堵に耕作を請け負わせます。そしてこの田堵がより大規模になった者が大名田堵。大名田堵が新しく土地を開発したら開発領主と呼ばれるようになります。
ただこの開発領主には困ったことがあります。それは折角自分の財産を出して土地を開墾したのに、国司がやってきて納税しろと迫ってくるからです。だからなんとか国司を黙らせたいと考えた結果、都の貴族や皇族貴族、有力寺院・神社などに土地を寄進(名義を有力者の名前にする行為)します。
何故そのようなことをするのかというと、国司は元々は都で出世できなくなった二流貴族がなる物になっていたので、彼ら非出世組は藤原氏などに精一杯ご奉公して国士に任命してもらいます。国司は律令制的土地制度の崩壊と共に人民の把握を中央が諦めた為、決まった額の税さえ納めれば勝手にしていいという事になっていました。なので地方の国司に任命されてたくさん税を取って儲けようという二流貴族は国司になりたがるようになったという経緯があります。
なので税金が欲しい国司は、開発領主が開発した土地からもがっぽり税を取ろうとして干渉をし、それを嫌がった開発領主側は国司を黙らせるために国司を国司に任命した都の有力者に名義を移す寄進という行為をするようになったわけです。国司は任期があり、任期が終わると美味しい思いが出来なくなるので、任命権を持つ権力者には逆らえません。国司は開発領主が開発した土地への干渉をやめます。
これが寄進地形荘園です。
ただ藤原氏も永遠に権力者というわけではなく、延久の荘園整理令によって大量の荘園がぶっ潰され、再度国司が開発領主の元にやってきて干渉をするようになります。じゃあ開発領主はどうするかというと、荘園整理をやる側の天皇家に寄進をすれば国司の干渉を防げると考え、天皇家への寄進が盛んになります。
このプリントの内容がほぼしっくりこなくて教えてくださると嬉しいです