✨ 最佳解答 ✨
非常に理解が難解な部分です。基礎からいきましょう。
まず律令制的土地制度とは何か。皆さんご存知「班田収授」です。口分田を6歳以上の男女に渡し、生活を安定させてそこから税を取る。シンプルではありますが、この律令制的土地制度の最大の問題点は男の負担が重すぎることと、人頭税方式であることです。
男性には租・庸・調(女性は租のみ)に加え、運脚、防人などの軍事奉仕、など絶望的に重いのです。そして貧しかろうが富んでいようが一律に同じ額を徴収する人頭税はギリギリの生活をする貧者にはあまりにもキツすぎます。ならばどうなるか。浮浪・逃亡・偽籍が横行します。
面白い例二つご紹介します。
一つは備中国邇摩郷のお話です。三善清行『意見封事十二箇条』で述べられた律令制的土地制度崩壊の実例です。
“斉明天皇の時代、百済救援の為に天皇自ら筑紫朝倉宮に下る途中、備中国を通った。その際やけに栄えている村を見つけ、試しにそこで兵士を取ってみると2万人もの兵士を徴兵できた。天皇は大層お喜びになられ、このことを記念して、この村を二万の郷→邇摩郷とお名づけになられた。そしてこの村の発展のために、それらの兵士は朝鮮半島に連れて行かれることもなく、このままいけばもっともっと人口が増えて栄えるはずだった。しかし称徳天皇の時代に邇摩郷です納税する男子がどれだけかと数えてみると、僅か1800人であった。(中略)私三善清行が宇多天皇の時代に備中国の国司をやっていたので、調べてみると、邇摩郷で納税する男子は僅か9人でした。
そして醍醐天皇貴方の時代に国司の交代があったので、備中国の国司をやっていた人間に「今邇摩郷で納税する男子は何人いるか」と尋ねたところ、「1人もあることなし」と返ってきたのです。こんな状況で醍醐天皇貴方は律令制的土地制度の立て直しをしたいと仰っていますが、無理なのは手のひらを見るよりも明らかである』
とまぁこんな内容です。醍醐天皇の時代、即ち10世紀の前半の段階で律令制的土地制度の立て直しは無理だと分かったという史料です。
二つ目は阿波国板野郡田上郷の戸籍です。これは延喜二年に作成された戸籍で、まさに醍醐天皇の時代です。この戸籍にはのべ405人の具体的な人名が載っていますが、男54に対して女351という超歪な内容であり、更にこの女の大半は同じ人物、死んだ人、超BBA。完全にふざけた内容の戸籍です。当然偽られて作られたと現在考えられていますが、女であれば税負担は軽く、口分田を水増しして貰おうという考えで作られた思われます。
とまあもう制度として完全にオワコンなんです。だからちゃんと税が入ってくるように制度を変えなきゃいかんわけです。
そこで導入されるのが負名体制です。
今までの土地単位ではなく、新たに名という単位に再編します。そして地方で割と裕福な連中(田堵)にその名の耕作を請け負わせて税を取ります。そしてこの田堵の中でもより大きな力を持った連中のことを大名田堵、大名田堵が新たに田畑を開墾したら開発領主と言います。で、開発領主は嫌だなあと感じることがあります。それは国司の存在です。
国司は地方政治の衰退に伴い、納税さえしっかりやってくれれば、地方政治は一任するよという状態になっていました。これは国司めちゃうま案件です。何故なら国司になって一定の税以上に税を取れば、その余り部分は自分の懐に入れてもOKだからです。そして時は摂関政治の全盛期。もう能力では思うような出世は出来ず、家柄で大体決まるようになったので、もう都の二流貴族は出世を諦めて、国司になりたがります。
で、国司になるためには権力者に精一杯ご奉公して、国司に任命してもらう必要があります。これを成功と言います。そして晴れて国司になった貴族は地方でがっぽり税を取って私腹を肥やすわけですが、ここで問題が発生します。国司は開発領主が開発した土地からも税を取っていこうとするわけですが、開発領主からしたら堪りません。折角汗水垂らして私財を投じて開発した新田も、国司が隙を見てがっぽり税を取ろうと干渉してくるからです。なのでどうにかして国司を黙らせたいと考えます。で、黙らせられる人は誰かというと、国司を国司に任命した都の一流貴族や皇族、寺院神社などの権力者です。彼らに開発した土地を寄進(言ってしまえば名義貸し)をします。例えばこの土地はあの都の貴族藤原道長様の土地ってなれば、道長に国司にしてもらった国司はその土地には手出しできなくなるんです。新しく開発した土地を都の権力者名義の土地にすることで、その威光によって税を払わなくて良い非課税の土地にしてもらうことにこうして成功します。こうして成立した土地を荘園と言い、こうした税の免除や国司の立ち入りを拒否する権利を不輸・不入の権と言います。そして国司がこの土地は税無しって判子を押された土地が国免荘、中央政府に圧力かけて免除してもらったのが官省符荘。
彼ら開発領主はその荘園の管理人さんというポジションになり、この管理人さんの名前を預所とか荘官と言ったりします。逆に寄進された側の有力者を領家と言います。
ただ国司は悔しいわけです。折角がっぽり稼ぐために地方に来たのに、まともに税金取れないからです。だから色々調べてみると、この荘園は藤原摂関家の荘園で介入できないけど、こっちの荘園は落ちぶれたあの家が領家じゃん!と発見したりします。そうするとまた国司による土地への介入が増えます。
でももう落ちぶれた領家では国司の介入を止められないので、領家が更に上級の皇族や摂関家などに更に土地を寄進して、また国司の介入を防ぎます。この上級の家のことを本家、そして実際に荘園の実効支配権を有した方を本所と言います。(本所は必ずしも本家ではない)
こうして成立した荘園を寄進地形荘園と呼び、こうした1人の耕作者の上に何人もの権利者が乗っかっているという状態を職の体系と呼んだりします。(青学だっか法政の問題で出た過去あり)
まとめろと言われて長くなりましたが、こんな感じです。はっきり言ってこの範囲は簡単にまとめられません。難しい範囲ですがしっかりと理解しないと、一地一作人の原則が理解できませんから頑張ってください