家康は,関ヶ原の戦いの翌1601長6)年、”
銀座を設けて,小判(1両)などの立貨,科量鉄
通の寛永通宝が大量に鋳造され,永楽通宝などの中国の貨幣は使か
の越後
いえやす
せき が はら
よう
農業
金融業の発達
→p.112
ぎん ざ
しょうりけか。
戦国
ちょうぎん
まめいた
ちゅうぞう
けいちょうきんぎん
である丁銀·豆板銀などの銀貨を鋳造した(慶長金銀)。銭告さん。
通の寛永通宝が大量に鋳造され, 永楽通宝などの中国の貨幣はほ。
なくなった。貨幣の鋳造権は幕府が独占したが, 17世紀の後半から。
せん か
が、
かんえいつうほう
えいらくつうほう
され
5
*p.89
躍日
はん
各藩で領内限定で流通する藩札が発行された。商品流通の発展は、
はんさつ
のコ
のような貨幣制度の整備にささえられていた。
に、
あけ
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ただし,江戸を中心とする東日本では金遣い, 大坂を中心とする
づか
日本では銀遣いで, 東西でおもに流通する貨幣がちがっていた。金
10 た
農
りょう
銀·銭の三貨は,金1両=銀50匁(1700年以降は60匁)=銭4貫(1貫
もんめ
かん
もん
1000文)と公定されたが,実際には換算率が変動したので, 都市には
りょうがえしょう
ふゆう