✨ 最佳解答 ✨
概ね合っていると思います。端的にまとめられており、読みやすく良い回答だと思います。
5 仏教伝来の際は、仏教を受け容れるかどうかで問題になりました。在来の神の信仰・祭祀に関わっていた物部・中臣氏は仏教に反対していましたが、蘇我氏は仏教を積極的に受容し、氏寺の建立などを行っていました。この仏教をめぐる対立は、そのまま蘇我・物部氏の対立に受け継がれます。これが最終的に蘇我の勝利に終わったことで、国家全体も仏教を中心として施策へ転換していきます。
6 厩戸皇子が隋と対等外交を目指したかどうかは、現在でも議論になっている部分です。学校の先生に聞いてみてください。いちおう、最近の研究動向では、厩戸皇子は隋と対等の関係を目指したわけではない、と考えられています。日本は隋の冊封体制下に入ることを拒否しましたが、これは隋と対等を目指したわけではなく、隋の冊封体制下にあった朝鮮諸国に対する優位性をアピールするためだったと考えられています。(基本的には現在の教科書の理解に従ってください。)
10 いわゆる徳政争論の話ですが、造作は「平安京」への遷都を指しています。「平安京」というワードを入れたほうが良いかと思います。
13 遣唐使廃止の主な理由は「唐の衰退」「航海の危険」なので、この他の理由を問われるのは稀だと思います。あえて挙げるとすれば、「(唐の衰退により)東アジア諸国が混乱状態に陥ったため、混乱が日本まで波及するのを避けた」「平安時代の遣唐使は、国交よりも交易が中心になっていたため、わざわざ使者を派遣する理由が薄れていた。」といったところでしょうか。
15 平安中期には末法思想と浄土教が盛んになりました。浄土教(鎌倉時代の浄土宗とは違うので注意)とは、阿弥陀仏を信仰して、極楽浄土への成仏を願う教えのことです。これが流行った背景にあったのが末法思想です。「末法」とは、お釈迦様が亡くなってから2000年後の世界で、どんなに修行をしても悟りを得ることは不可能(≒世界の終わり)とされました。この末法が訪れるのが、ちょうど平安時代の永承七年(1052)と考えられていました。要するに、末法の世の中ではこの世で救済を得ることができなくなるので、来世で極楽へ行って救われよう、というのが浄土教です。
プロフィール拝見しました。大学で日本史を学んでいた方に回答いただけて、とても嬉しいです。
丁寧に添削していただき、ありがとうございました😊